森下君は実は何にも知らないのだ・・・・・・(4)

「家畜人ヤプー」贓物譚(ぞうぶつたん):『潮』昭和58年(1983年)1月号より

さりとて、小説の構想を実際にまとめ上げていくのは、予想以上に至難の業であった。ために、幾たびも、K氏を含め先輩畏友の意見を叩き、原稿の批判を仰ぎもした。しかし、先の連鎖エッセーと違って(『家畜人ヤプー』そのものはどこまでも私一人が文責を負う私の著作である。としながらも---躊躇するものがあった。なべて文なるもの、盗作ならざるはなし。実際、沼正三なる名は私一人のものでないという意識が強く働いた。

これは仮設人格(フィクション)である。---読み人知らずの和歌あれば、書き人知らずの小説あっても、然るべきではあるまいか。熱き想いを托して肩組み熱唱する友垣らが『同期の桜』とて、作者不詳、生みの親を知らずして、なおかつ子はあの如く、すくすくと一人歩きするではないか。親離れ子離れの、斯くの如き作品よ、生まれ出でよかし、の自らの待望もあった。

松本清張氏に『青い描点』という作品あるをご存じだろうか。今や令名高き当代の女流作家が、実はひとかけらの文才もなく、実作者は芝居の黒子のように、黙々と、人目にも触れることなく完全に陰の人として生きる、見た目に見すぼらしい男であった。というお膳立てがあっての推理小説であるが、その黒子のような顧みられない陰の男の立場は、強烈な憧れを誘う。才能も生活も、丸ごと女に吸い取られ、その生き肥料としての生涯を終える陰の立場は、明らかにマゾヒズム的法悦の特権ではなかろうか。緊縛や鞭のみがマゾヒズムの象徴ではない。この深い心情の機微に理解なき森下君が、なぜ自身をMと称するのか、これは明らかに詐称である。ともあれ、私は、この陰の代理人の卑下意識
に憧れた。

・・・次号更新【「家畜人ヤプー」贓物譚(ぞうぶつたん)・・・『潮』昭和58年(1983年)1月号より・・・連載8】に続く