【虚業家宣言(4)】
◆戦後興行界の風雲児
後年、残念なことに私と神さんとは『クレイ戦』のプロモートのことで裁判沙汰に巻き込まれ、敵同士になってしまったわけだが、”呼び屋”神彰に対する私の尊敬の念は、今でも少しも変わってはいない。神さんというのはそれほど魅力的な人物だった。事業家の手腕と芸術家の繊細さ合わせ持った稀有の天才であった。
大正十一年生まれというから、私が初めて出会ったときの神さんは、まだ四十歳になって間がなかったわけだ。
神さんが『AFA』を設立、呼び屋の世界に足を踏み入れたのは昭和三十年である。まだ、戦争による荒廃が完全に癒えきっていない時代だった。呼び屋といえば駐留軍相手のタレントの仕出し屋に毛が生えた程度のものと考えられていた。
神彰が天才的だったのは、彼が、タブーとされていた共産圏に目をつけたことである。当時まだ正式な国交も回復していないソビエトから、たとえ、どんな形にせよ、”ブツ”を仕入れられるなどどは誰も想像すらしなかった。
神さんはそれをやってのけたのである。しかも極めて精力的に。
三十一年、ドンコサック合唱団
三十二年、ボリショイ・バレエ
三十三年、レニングラード交響楽団
三十四年、ボリショイ・サーカス
鳩山一郎の努力によって日ソ平和条約が締結され(三十一)、国内に高まった新ソムードにみごとに乗った手腕はアッパレと言うほかない。
彼は自分の仕事についてこう語っている。
「私の一つのテーゼをかかげてこの仕事を始めた。それは、全世界の芸術を愛する人々が、たがいに結び合い、国境を超えて純粋な美をわかちあい、未来の建設につとめることである。私はその道を拓こう。芸術に国境はない・・・・・・」
そして詩人の吉田一穂老は、神彰を評してただ一言、こう言ったたそうである。
「動物だ!」
大きな仕事をやり遂げてきた人の常として神さんも、毀誉褒貶の激しい人だが、戦後史のうえでもっと高く評価されていい人物だ、と今でも私は思っている。
・・・次号更新【七年がかりの『シャガール展』】に続く
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