証言で綴る日本のジャズ3 康 芳夫 第6話「アート・ライフを設立」:小川隆夫(ARBANより抜粋)

証言で綴る日本のジャズ3 康 芳夫 第6話「アート・ライフを設立」:小川隆夫

ボリショイ・サーカスの裏にあった国際的陰謀

呼び屋として一躍神彰の名を揚げたのはボリショイ・サーカスであった。初めてポリショイ・サーカスを呼んだ一九五八(昭和三三)年当時、日本とソ連の間に正式な国交はなかった。それゆえ国交のないソ連から国を代表するような大きなサーカス団を呼んだということで大いに話題になったのである。

その二年前の一九五六(昭和三一)年には鳩山一郎首相が「日ソ国交回復に関する共同宣言」に調印している。そんな時代の流れを神彰はいち早く鋭く読んでいたのだ。

サーヵス団は日本全国を回ったが、どの会場も人が入りきらないほどの大盛況ぶり。もちろん興行収支的には大成功であった。通算六回、毎年日本へ呼んで興行を打ったが、ざっと今の金額にして三〇億円ほどの利益を上げたと思う。

東京の公演会場となっていた千駄ヶ谷の体育館には夕方になると、アートフレンドアソシエーションの主要取引銀行である勧業銀行(その後、第一勧業銀行となり、現在みずほ銀行)の行員が大きな金庫を一〇個ほど持って現われる。

おとなしそうなその行員が見つめる前で、我々スタッフが輪ゴムでくくった札束を金庫に無造作にポンポン放り込んでいくのである。神彰はその札束から一部を抜き取り、「康、これで銀座で遊んでこい」と投げて寄こしたりするのである。ボリショイ・サーカスの公演期間中は毎晩、そうやって派手に飲み歩いたものだ。

・・・以上、虚人のすすめ―無秩序(カオス)を生き抜け (集英社新書)より抜粋