家畜人ヤプー:幻冬舎アウトロー文庫

日本神話を脱構築する:畜権神授説・沼正三『家畜人ヤプー』と日本神話の脱構築:巽孝之・・・その30

ふりかえってみれば、『一九八四年』にしにしても『幼年期の終り』にしても『侍女の物語』にしても、全体主義的支配に対して疑念を生じる主人公が物語の促進力だった。『家畜人ヤプー』の促進力は、そこにはない。いや『家畜人ヤプー』の側は、そんな疑念が生じるようでは、まだまだ支配が足りないものと見るだろう。むしろ全体主義的とかマゾヒズム的とかいう単語が不要になるくらい十二分に所有され解釈され消費されつくすこと、これが肝要だ。

したがって、『家畜人ヤプー』的文脈におけるかぎり、ジャパン・パッシングひとつにしても、必ずしも日本の政治経済的倣慢に求められるわけではない。たしかにプロットの上では、東京裁判において裁かれた日本民族首長の戦争犯罪が、日本人をヤプー化する言説の引き金になっている。だが、たとえば『家畜人ヤプー』完結編において以下のような注釈さえ読まれるのを、わたしたちはどう解釈すべきだろうか(ちなみに、『家畜人ヤプー』完結編最大の読みどころがその膨大な「注釈」の醸し出すユーモアにあるのは、指摘するまでもない)。

・・・畜権神授説・沼正三『家畜人ヤプー』と日本神話の脱構築:巽孝之 より・・・続く