家畜人ヤプー【ポーリンの巻】より

日本神話を脱構築する:畜権神授説・沼正三『家畜人ヤプー』と日本神話の脱構築:巽孝之・・・その28

V 調教文学は何を教えるか

このように『ヤプー』を読む者は、当然ながら、この三◯数年前に書かれたテクストが、たんに今日流行のクラブ・ファッションのみならず、今日論議かまびすしい「歴史の終わり」論争さえ予期していたものと解釈するだろう。当然の筋道である。だが、あまりにも当然であるだけに、『家畜人ヤプー』のコンテクストにおいては、少々の留保が必要だ。というのも、今日の歴史終焉論争はへーゲル学者アレクサンドル・コジェーヴ流の日本的形式主義再評価に落着するかのように見えるが、まさにそのような日本的スノビズムとジャパン・パッシングのあいだに密接な論理的脈絡を架設しつつ、まさにその脈絡関係自体をラディカルにゆらがせることこそ、沼正三の野心だからである。その根本は、モノリスと同じくヤプーにおいても、知能と階級に一致を見出さないという発想に結晶した。そもそも知能増進とはスノビズムの帰結であり、そのような文化資本を貨幣に変換しうる時点で幻想の民主主義民主が樹立されているが、それと階級意識とはいっさい無縁であることを寓喩化したのがジャパン・バッシング言説にほかならない---この主張にこそ『家畜人ヤプー』最後の砦が横たわる。

コジェーヴの論点は、経済的成功を収めたアメリカ文明における主体は皮肉にも動物化してしまったが、いっぽう日本においては、「能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビズム」が民族的精神構造を規定しているがゆえに、日本人は「例外なくすっかり形式化された価値」価に基づいて「無償の自殺」さえ行なうことができるし、そのうえ今後の日本と西洋の交流においては「西洋人を日本化すること」が促進されるであろう、しかもそれは動物化ではなくスノビズム内部にポストヒストリカルな「人間性」が保証されていくことなのだ、という主張に尽きる(『ヘーゲル読解入門』[原著一九四七年、国文社一九八七年]、二四七頁)。一九四七年の初版出版後、一九五◯年代当時に付加された右コジェーヴ脚注が今日いったいどこまで妥当性をもちうるかは不明だが、沼正三が一九五◯年代以降のヤプー的畜人形成において続行した実験の要点は、右にいう歴史終末後に生き延びるだろう日本的スノビズムの可能性については容認しながらも、それをむしろ「人間像」どころか、いっさいの主体=他者関係さえ逸脱する「畜人」のユートピア内部の可能性として再構築した点にあろう。

なるほど、コジェーヴによれば、日本的美徳はいっさいのイデオロギーを欠落させたフォルマリスムにある。けれども、沼正三が「ヤプーの模倣癖、遊び下手、<暇があったら勉強を>」というスタンスを指摘し、かつ「無宗教同然だから、自分より優れたもの自分より美しいものならなんでも拝む傾向があった」と記述するとき(『家畜人ヤプー』完結編、三◯四・二六三頁)、それを単純なイデオロギー回帰と解釈してはならない。沼はむしろ、コジェーヴ的限界を突破する意味で、日本的スノビズムそれ自体を生きる正しい家畜像を表象しようと試みたのではなかったか。

・・・畜権神授説・沼正三『家畜人ヤプー』と日本神話の脱構築:巽孝之 より・・・続く