都市出版社版『家畜人ヤプー』(1970年発行)

家畜人ヤプーの館の時代背景(1)もうひとつの家畜人ヤプーの世界!!日本初の高級SMクラブ『家畜人ヤプーの館』(連載2)

主人公丸木戸貞男が「家畜人ヤプーの館」を開館させた一九七〇年は、一九六〇年代後半から吹き荒れていた激動の嵐が治まりかけて、新たな時代の出発点ならんとしていた。

開館から二ヶ月後には作家三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を図った。半年前大阪で開かれた万博が「家畜人ヤプーの館」のオープンと軌を分かつがごとく幕を下ろし、日本中が祭りの渦中に翻弄されていた。また三月には劇画史上不朽の名作である『あしたのジョー』が人気沸騰し若者の共感を呼び、ジョーの敵役力石徹の作中での死を悼み告別式を催した。その日から一週間後には赤軍派による日航機「よど号ハイジャック事件」が起こり、犯人等は人質を解放した後、

「俺たちはあしたのジョーになる」

と言って北朝鮮の平壌に飛び立って行った。主犯の田宮高麿は筆者の生地、新潟県新発田市で幼少期を過ごしたからか、死後、己の骨を新発田の墓に埋めてくれと実兄に懇願し、願い通り瑞雲寺に葬られた。古くは甘粕大尉に惨殺された社会主義者、大杉栄も旧制新発田中学を出ており、何か因縁じみたものを感じる。

下町育ちの江戸っ子で白面の貴公子と呼ばれるほどの美男ボクサー大場政夫がWBAフライ級世界チャンピオンの座におさまるがその二年後世界に三台しかないと言われるプラスチック外装のスポーツカー「シボレー・コルベット」で首都高を百キロ超で疾走し大型トラックに激突し二十三歳の若さで非業の死を遂げた。

筆者がその訃報を知ったのは度重なる当局の摘発に嫌気がさし、次なる展開を図るべき策を練るためヨーロッパを流浪中のことだった。チャンピオンになりたての頃に昔の職場の先輩と上野の大衆キャバレー嬢らと四人連れで館を訪れ、ボクサーらしからぬ顔に傷跡をもたない秀麗な風貌には感動を覚えた。私の、

「お腹を打たせて貰えますか?」

の頼みも快諾してくれ、

「私の拳が手応えなく包み込まれる感じだ」

との発言に、

「そうなんですよ。ボディは反発せずに丁度キャッチボールで強く速いボールは引くように受けるでしょう」

と屈託ない笑顔を浮かべていたことを思い出すたび、滅びの美というか桜が散るイメージと重なり潔く館を閉じる決心の後押しになったのは事実である。

同様な美を三島由紀夫の死にも感じたものだった。

・・・次号更新【『家畜人ヤプーの館』 official HP ヴァージョン】に続く

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