風俗奇譚 昭和45年7月臨時増刊号より
不可思議なる電話
ヤギ編集長は奇怪な電話をうけてからというもの、一日じゅうおちつかなかった。それは、おし殺したような声で、
「私、ブタでございます。そう、ブタ肉のブタでございます」
とくりかえしているのである。
「あ、ブタ肉のブタ・・・・・・ですね」
ヤギ編集長は口ヒゲをさすりながらおうむ返しに言った。ヤギ編集長は、小冊子の編集を手がけるベテランである。ことに珍書・奇書のたぐいにかけては得意としているらしくそのすじでは、わりと名まえも知れわたっているのである。
「ブタ肉のブタがどうしたんですか」
ヤギ編集長はくりかえしていった。男はなにやらくちごもっていたが、やがて、
「ヤギさん、沼正三って人物をごぞんじですね。マゾヒスト小説家として有名な」
沼正三。
ヤギ氏は、当時、『日とケシ』というエロティシズムの総合誌を手がけていたこともあって、その名まえを知っていた。
沼正三といえば、『或る夢想家の手帖』とか、『家畜人ヤプー』の小説で知られている幻の異端作家である。『奇譚クラブ』誌に、20回にわたって連載した『家畜人ヤプー』がすごい評判となった。三島由紀夫氏や奥野健男氏が、手ばなしで、
「すごい小説だ。世界文学の傑作だ!!」
とほめちぎり、愛読したということもあって、連載中から、高く評価されていた作品なのである。しかし、その当時は、今のように、「マゾヒスト」が正々堂々とまかり通る時代ではなかった。沼正三は、いわば、「日陰の花」だったのである。日陰の花だったから、逆に、熱烈な信奉者も多かったのである。
その『沼正三』の名まえが、まるで不死鳥(フェニックス)のようによみがえってきた。それもある日突然の電話である。
「ええ、沼正三はよく知ってますが、しかし沼正三氏は、もう、とっくの昔に筆を折ってしまっているではありませんか。それから、ハンブルグに行ったというウワサは聞いていますが、いずれにせよ、ここずっと、姿をあらわしていないんでしょう」
ヤギ氏は事務的にしゃべった。すると、そのブタ男は、
「ヘヘヘヘヘ」と意味ぶかくわらいながら、
「私はブタ男ですが、ダテのブタ男とはワケがちがうんです。沼正三の、代理人なんですよ。ヒッヒッヒッ」
というではないか。
「代理人だって?」
ヤギ氏がいぶかしげにたずねると、男は、
「夕方、あなたの編集部をたずねます」
といい、ガチャッと受話器を切ったのだ。
それからというもの、ヤギ氏はソワソワして一日じゅうおちつかないのである。
ヤギ氏はベテランの編集者である。沼正三氏が筆を折っていらい、まったくの行え不明であることぐらいはよく知っている。おそらく沼正三が、死んでいるだろう。という予感もうすうす知っている。そして、編集部に一日に三回ぐらいはかかってくる。この手の「うりこみ屋」のいいかげんさも、じゅうぶん知っているのだ。
「沼正三の代理人だって、へ、しゃらくせえ」
と、ヤギ氏はつぶやいた。
ヤギ氏はタバコに火をつけながら、ふと考えた。どうせ、このブタ男はとんだ並み肉なのにちがいない。
「それにしても、沼正三の代理人、といいだすとは、ちょっと風変わりな男だ。それに、みずから、ブタを名のるとは、相当のマゾヒストなのにちがいあるまい」
ヤギ氏はタバコをたてつづけにすった。何か、頭にひらめいた時、ヤギ氏はいつも、こうなのだ。
「この男は利用できる。男をのせて、沼正三の代理人にしたてれば、こいつは、ケッサクな芝居がくめるぞ。そうだ。ブタ男をのせてひとつボロモウけをやってやろう」
・・・次号更新【風俗奇譚(昭和45年7月臨時増刊号)小説 沼正三【著:嵐山光三郎】:連載3】に続く