『諸君!』昭和57年(1982年)11月号

『諸君!』昭和57年(1982年)11月号より

一睡もせずに原書を読む

ところで、彼には、私の家を訪ねるべきもう一つの理由があった。

『Weiberherrschaftパイパーヘルシャフト』(邦題『女天下』)というドイツ語原書四巻本を私が持っており、それを見たがったのである。

アルフレッド・キントとエドワード・フックスの共著になるこの本の、第一・二巻は単なる性風俗史であり、三巻はマゾヒズムが主題になっているが、第四巻はコプロラグニーについての記述である。

しかもこの第四巻は、刊行直後にナチスが発禁処分にしたため、世界でも所蔵者がきわめて少なく、幻の本といってもよいシロモノなのである。そいつをたまたま私が持っていたために、彼は上京の折りにわざわざ拙宅を訪れたわけである。

私は、これをしばらく貸してやってもいいと考えていた。ところが彼は、

「いや、これはなかなか手に入らない本だから、ぼくが失くしでもしたら大変だ。ここで読ませていただくだけで結構ですよ」

そういって、一晩かかって読了してしまったのだ。亀の子文字といわれるドイツ語の原書を一夜にして読了するのは、容易なことではない。彼はそれをやってのけたのだから、よほど語学に堪能といってよいだろう。

私は新妻と閨を共にすることのほうが大切であったから、応接聞に彼を残して早々に寝に就いた。そして翌朝十時ごろ起きて行ってみると、もう彼はいない。妹が、

「あ、さっきのお客さんは『それじゃよろしく、また伺います』といって帰りましたよ」

という。一睡もせずに亀の子文字を睨んでいたのには、ほとほと感心したものである。

彼と出会ったのは、その一回きりである。

その後も十年間ほど文通は続いたが、沼正三が何者であるかに関心を抱くのはずっと後、『家畜人ヤプー』が単行本として都市出版社から刊行された四十五年より、さらにずっと後のことである。

『家畜人ヤプー』を読んだことのない読者のために、角川文庫版の中に記された惹句を引用しておこう。

《卓抜した発想と空想力、驚嘆すべき博識、類稀れな面白さと気味悪さ・・・・・・。幻の作家沼正三が二千年後の宇宙大帝国イースを舞台に白人女性の快楽の必需品となる日本人の後裔”カープ”を描いて、マゾヒズムの極致を展開する大幻想小説。この世界的奇書の出現は読書界に異様な衝撃と大反響をまき起した》

また改訂版の帯にいわく、

《戦後の観念小説として最高の傑作という三島由紀夫氏の激賞、幻の作者探し、右翼の襲撃など、騒然たる話題を投げながら・・・・・・未だに日々新たな読者を生みつづける驚異のロングセラー》

とある。

日本人青年、瀬部麟一郎が、タイム・スリップにより未来世界から現われた美女ポーリーンに飼いならされてゆく、一大長編SM叙事詩であるが、その評価については、今は亡き三島由続夫の熱の入れようを記しておくことにする。

三島は、三十一年に『奇譚クラブ』誌上で連載が開始された当初から、この極めて特異な文学に注目していたらしい。挙句に、彼が『ヤプー』を中央公論社から出版させようとしたのは、三十六、七年のことである。

どこから伝え聞いたものか、沼正三がこの話を曙書房の吉田社長に教えたところ、吉田氏は喜んだ。それまで日蔭者扱いされてきたSM物が、ようやくにして大手出版社の手により陽の目を見る---それで『奇譚クラブ』の編集後記に、

「このたび、本誌連載中の『家畜人ヤプー』が、三島由紀夫氏の推薦により中央公論社から出版の運びとなりました」

と書いた。これが毎月、同誌を愛読していた三島の目にとまったのがいけなかった。三島にすれば、

「俺の名前を出されちゃ困る。もうこの話はなかったことにしよう」

というわけで、結局、単行本化はボツとなってしまった。

一説には、当時まだ中央公論社には「風流夢譚事件」の余熱があって、黄色人種たる日本人が白人女性の愛玩物(ペット)になるという内容が敬遠されたのだ、と解説するむきもなくはなかったが、真相は右の通りである。吉田社長も、

「編集後記に余計なことを書いて、沼さんには悪いことをした」

と、しょげ返っていたものだ。

・・・次号更新【『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事:森下小太郎・・・連載6:代理人・天野哲夫氏の登場】に続く