深夜のヤプー・パーティー

風俗奇譚(昭和45年7月臨時増刊号)小説 沼正三【著:嵐山光三郎】

谷貫太氏といえば、古くからSMFの原稿執筆者として知られており、沼正三氏とも面識がある人物である。

谷氏は、『奇譚クラブ』に執筆しており、沼正三氏と仲がよかったのである。沼正三氏は、長野県の教師をしながら、『奇譚クラブ』へ、『或る夢想家の手帖』や、『家畜人ヤプー』の原稿をおくっていたが、途中、ドイツへ行ったのである。ドイツのハンブルグは、娼婦の町として知られており、外人女性崇拝の沼正三としては、そこを尋ねることは、まさに極楽の地を訪れることだったにちがいない。

沼正三は、ハンブルグから、谷貫太氏ヘマゾヒスティックな図がかいてある絵はがきをおくっている。Nのマークが、沼正三氏のサインであった。

その後、帰国して、神奈川に住んでいたことがあるらしいのだが、谷貫太氏への手紙がパッタリととだえたのである。手紙がとだえて10年以上たったいま、『家畜人ヤプー』が出て、突如「オカシイゾ」と谷貫太氏はおもった。

親友からの手紙がバッタリとだえて10年もたてば、少なくとも病気で執筆はできないはずである。「死んだのかもしれない」とおもいこんでいたやさきに、急に、沼正三氏がよみがえったのである。

「何かある」

と思った谷貫太氏は、代理入として、ブタノが暗躍していることをつきとめた。ブタノは、やはり同時の『奇譚クラブ』の筆者だから面識はあったのである。

谷貫太氏は、すぐにブタノの陰謀を見ぬいてしまったのである。沼正三の栄光をくすねとることへの憤りもあったが、マゾヒズムの世界を、ブタノがゆがめて、世間に出してしまったことの憤りのほうが強かったのかもしれない。

谷貫太氏は、何年もSMFの正当性を論じてきた。それを、ブタノが自己目的のために、ふたたび、日陰の存在へもっていこうとしている。覆面をつけて、興味をあおるために週刊誌やテレビに出るブタノが、ゆるせなかったのであろう。

谷貫太氏は、『風俗奇譚』6月号のSM喫煙室に、『豚は死ね』と題して、世にブタノの陰謀をあばくとともに、ブタノへの警告をおこなったのであった。

そこには、ブタノの偽装計画が、ひとつひとつあばかれていた。しかし、この記事が出るまでには、ちょっとしたいざこざがあったのである。プタノの記事妨害工作がおこなわれたのである。谷貫太氏に事実をあばかれたら、それまでのプタノの偽装工作はすべて水のアワである。ブタノがいちばんおそれたのは、谷貫太氏が、沼正三の顔も、ブタノの顔も、よく知っていたことである。では、なぜ、谷貫太氏の原稿内容をブタノがキャッチしたのか。

さまざまな偽装工作をしてきたブタノとヤギ編集長は、それの決定版ともいうべき、ショーを企画したのである。いわば、このショーに全マスコミを招いて、スキャンダルをおこし、沼正三の伝説をさらにひろめるのが目的であった。

「ヤプー・パーティー」とメイうたれたこのショーは、銀座高級ゴーゴー・クラブの「ホワイ・ミナーレ」で深夜の12時から行なわれたのだが、それは、マゾヒスト・ショーとともに、沼正三があらわれるというふれこみであった。

ことさらセンセーショナルなものを求めるマスコミの常をねらった巧妙なショーだけあって、そのもようは、各週刊誌が大々的にとりあげ、宣伝は成功したが、パーティーに、かんじんの沼正三は出場しなかった。

かわりに、テープレコーダーから声が流されて「私、沼正三です。そもそもマゾヒズムというものは、うんぬん」というカエルのつぶされたような声が流れた、ブタノの声にちがいない。パーティーじしんはしらけきって終わったのだが、ショー終了後に行ったバー『ナジャ』で、私がばったり、ブタノに会ったのである。

私が、「沼正三なんて死んじゃったよ」としゃべったものだから、ブタノはあわててしまったのである。(ヤプー・パーティーおよびこのへんの事情は、私が『実話情報』7月号にくわしく書いているから、興味ある読者はそれを参照せられたい)

「おまえさんの偽装工作なんざ、谷貫太氏はおみとおしだよ」

と私がしゃべってしまったのがいけなかったのだ。翌朝(といってもそれから5時聞後だが)、ブタノは、谷氏へ「電話を請う」という電報を打ち、電話がこないと見るや、谷貫太氏宅までやって行ったのである。

ブタノは、谷氏に、『風俗奇譚』への執筆中止をたのみこんだ。そのためには、ヤプー印税の一部を谷氏へわたす、と言ったのである。

ブタノにしてみれば、必死だったのであろう。かずかずの偽装工作がばれれば、いままでの苦労が水のアワなのである。

谷貫太氏はその申し出を断わった。そればかりか、事件を「金銭」で解決しようとするブタノのきたないやりくちに腹をすえかねて、ますますおこってしまったのである。

金で解決しないとわかると、ブタノはこんどは言いわけをはじめた。

「沼正三は生きている」

といいはじめたのである。

「証拠を示せ」

と谷氏がいうと、きたる4月18日に、沼正三氏をつれてきて、谷貫太氏に会わす、ということであった。

もし、沼正三が、ブタノがいうとおり生きているのなら、谷貫太氏とていうことは何もない。むしろ、谷貫太氏は、10年以上も会っていない沼正三氏に会いたがっていたのである。

ヤプー・パーティーが開かれたのが、4月12日の夜で、ブタノが谷貫太氏を訪問したのが4月13日である。ブタノは、谷貫太氏を共犯者にまきこもうとして断わられたのである。

翌日の4月14日、私はブタノより電話をうけた。どうして、ブタノが私の居所をつきとめたかはわからないのだが、さまざまな工作をするブタノのことだ、それぐらいはすぐに調べあげたにちがいない。

電話の内容は、谷貫太氏への悪バだった。

「あんた、ね、谷貫太って人は悪人ですよ。ずるい人で、しかもウソつきだよ。あの人のウソにゃあ、もう、みんな、困ってるんですよ」

といった調子で、ようするに、

「だから、谷貫太のいうことは信用しちゃいけないですよ。あんた、だまされますよ。気をつけなさい」

といった、ありがたい忠告だった。さらにブタノが、18日に谷貫太氏と会談すること、(その際、秘密録音テープをとると言った)もいい加えた。

私は、13日に谷貫太氏とあっており、その会談のことも、ブタノの偽装工作も、すっかり知りつくしていたのだが、ブタノは、そんなことはつゆしらず、しゃべりまくったのである。谷貫太氏への申し出を断わられたブタノは、あわててしまって、私に、谷氏の悪口をしゃべったのである。私に対しては、谷氏を否定してしまえぱ、それですむと思ったのであろう。

さらに同夜、彼がつけくわえたのは、月刊『汐』の別冊春季号と、月刊『New Review』6月号に、『ヤプー』に関する原稿を執筆中だということ、今夜、『汐』の編集者と会って飲むので、その席へ出かけてこないか、という申し出であった。

私は即座に「酒を飲む」のは断わったが、今となれば、出かけていって、ブタノの仮面をひんむいてやればよかったとも思う。

疑問に思ったのは、私に対しては「沼正三の代理人」を自称するブタノが、なぜ、原稿を執筆せねばならないのか、という点であった。

・・・次号更新【風俗奇譚(昭和45年7月臨時増刊号)小説 沼正三【著:嵐山光三郎】:連載8】に続く