ネス湖探検隊:サンケースポーツ(1973年(昭和48年)8月11日 土曜日)
石原慎太郎との出会い(2)
一のジャズ・フェスティバル。五月祭にジャズが登場したのはこのときが初めてだった。しかも呼んだのは三保敬太郎、宮沢明ら当時の日本おけるベスト・メンバーである。
これは当たった。東大生ばかりか、聞き伝えた他の大学の学生がどっと詰めかけホールは超満員、入りきれない連中が窓という窓にすずなりで、入場券にはプレミアムがついた。五月祭の入場券にプレミアムがついたなんていうのは空前絶後だろう。
二番目のティーチイン。ここ数年、テレビなどでティーチイン型式が盛んになってきているが、これも、当時は、ティーチインという言葉さえまだ日本には紹介されていなかった頃で、当時としては斬新な企画だった。
参加者として、当時『太陽の季節』で売り出し中だった石原慎太郎、画家の岡本太郎、詩人の谷川俊太郎、評論家の村上一郎、平井啓之の五氏。こちらも大成功だった。この成功によってティーチインが大流行し、学内からテレビにまで広がっていくキッカケになった。
ティーチイン終了後、私は講師に謝礼を渡した。中味は五百円だった。
すると翌日、企画委の私のところへ石原慎太郎さんから電話がかかってきたのである。もう昨日で済んだはずなのに何事だろう、といぶかりながら受話器を取った私に石原さんの声がガンガンひびいてきた。
「人を甘く見るんじゃない。学生だから許されると思うのはたいへんな思い上がりだぞ」
石原さんの言い分はこうである。人を呼んでおいて、数時間しゃべらせ、その謝礼が五百円というのはどういうつもりかと言うのだ。むしろ最初からノーギャラならノーギャラと断わってもらった方がどんなにスッキリするかしれない。五百円というのは、自分の価値をおとしめられたようで許せない、そう石原さんは言う。
「なるほど、これは、こちらが非常識だった」
そう思った私はすぐに石原さんの家へ謝りに行った。もちろん、石原さんは最初から金銭の額を問題にしたわけではなかったから、快く私の言い分を容れて赦してくれた。
このことがキッカケになって、後に石原さんは私の運命を決めるのに一役買うことになり、私と石原さんの長いつき合いも、このときから始まるのだが、その詳細は前の章に書いたとおりだ。
・・・・・・次号更新【茅総長”バット殴打事件”の真相】に続く
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『虚実皮膜の狭間=ネットの世界で「康芳夫」ノールール(Free!)』真の虚業家の使命は何よりも時代に風穴を開け、閉塞的状況を束の間でもひっくり返して見せることである。「国際暗黒プロデューサー」、「神をも呼ぶ男」、「虚業家」といった呼び名すら弄ぶ”怪人”『康芳夫』発行メールマガジン。・・・配信内容:『康芳夫の仕掛けごと(裏と表),他の追従を許さない社会時評、人生相談、人生論などを展開,そして・・・』・・・小生 ほえまくっているが狂犬ではないので御心配なく 。
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