死者の国から呼び戻された幽霊・・・・・・(2)
その後、徳間書店で本文校了の段階まで進行したケースもあるが、最終的には、検閲上のことでトップと編集担当・奥山君との見解の相違があり、私は担当者に与してこちらから原稿いっさいを引き揚げてしまう。更には桃源社からのアプローチもあった。いずれも、澁澤君の紹介の労によるものであったようだ。その限りでは、同君への謝意は今も持ち続けているつもりである。
さて、初の単行本上梓は昭和四十五年二月の都市出版社版である。田村隆一氏を担ぎ、旧友・伊夫伎英郎氏をスポンサーにしての、矢牧君の乾坤一の事業が都市出版社の創設であった。内藤君は、一時彼とは別個に、薔薇十字社を興す。いずれも、意図はよし、新しい芸術復興の旗幟も高々と、壮んなる出発ではあった。
その出発に先立つ数か月前の、昭和四十四年の秋十月頃、矢牧君は慌ただしく私の勤め先へ訪ねてきた。都市出版社創設の抱負を語りつつ、ついては、是非『ヤプー』出版を認めてほしいと、五万円の小切手を差し出した。手付けのつもりであったらしい。『血と薔薇』誌の時の、手痛い彼の違約があるのを、気にしてのことでもあった。
矢牧君は銭勘定の出来ぬ男と言われている。編集者としての眼識は具え、粕谷一希氏著『二十歳にして心朽ちたり』(新潮社)に詳しい、あの伝説的同人誌『世代』編集責任の実績を持つ、最後の編集者ともいえる編集者であるのを私は知っている。反面、銭勘定の出来ぬ、無頓派編集者であり、小説の読み手としては海内一の自負を持つ、過剰な自信家でもあった。しかし、過剰に過ぎる自信ぶりと、人を人とも思わぬ無頼な開き直りの彼の体臭には、妙な磁力があって人を引きつけるところがある。彼は、自己の眼識をしか信じない。『ヤプー』にしても、キッカケは澁澤君からのサジェッションによるのかもしれないが、自分で納得しなければ納得できない男である。
『ヤプー』出版は大変な賭けであった。それに真剣に賭けようとしたのは、自己の自負するものに賭けることでもあった。
一か八か、私はその彼にすべてを托すことにして、契約書を交わす。話が進行中であった桃源社には、丁重にお断りした。
・・・次号更新【「家畜人ヤプー」贓物譚(ぞうぶつたん)・・・『潮』昭和58年(1983年)1月号より・・・連載10】に続く