拝聴 康芳夫先生「神を呼ぶ男」・・・24
秋山 人数が集まって、うまくやっていくための方法として民主主義があったとして、それに意味がないとすると、他にはどんな形がありますか?
康 それは方法論のレベルの問題だからそういう意味では認めている。それからプラグマティズムという問題があるでしょ。我々は一つの思索を極めるにあたってできるだけプラグマティックかつリベラルでなければならないのは当然のことです。然しながらそれが最終ゴールではない。鶴見俊輔という人はユニークな思索者、実践者であるが、ここのところを大きくはずしてしまっている。
澁澤 民主主義というとそこに付加価値がついてしまう。フリーと言ったときに・・・・・・。
康 そうなんですよ。できるかぎり民主的であるのは公共的共同体を維持する方法論で、そのレベルの問題だから。最終的なゴールではない。グローバルレベルでのデモクラシー、市民主義に関しても同じことが言えるのではないか。それをベースにしていろいろな思想および運動が展開されるということでしょ。デモクラシー、市民社会(主義)が最終的ゴールであるとする傾向がグローバルに行きわたっているが、これこそ擬似ネオファシズム以外のなにものでもない。これから逸脱する動きがすべて抑圧されているとすると、大変なことだ。勿論先ほど触れた北朝鮮のガキ将軍一派と麻原オウム教等のケースは問題外だが。
・・・以上、拝聴 康芳夫先生「神を呼ぶ男」:Fukujin N0.11 2006 より抜粋
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『Fukujin ~漬物から憑物まで~』明月堂書店
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