虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

総長に詰めよる(2)

それともう一つ、私が政治活動的に中立な立場にいたということも委員長に選ばれた要因だった。当時、大学の重要なイベントは三派系と代々木系の勢力が主導権を奪いあっていた。どちらかにシフトすると学内で争議がはじまる。その点、私は政治的にはいわゆる「ノンポリ」という立場を貫いていた。私自身、独自の哲学を持っていたので、既存のいかなる「政治」「宗教」にも絶対染まらなかった。三派系も代々木系も体育会や右翼も関係なかった。もっと、それらを超越した「総合的思想」に興味を持っていたのだ。これは、いまでも変わっていない。後にもふれることになるが、私自身生まれつきというか、生理的に、俗にいう「ニヒル」「シニカル」、言い方をかえれば「超越的」生き方を無意識的にしているのだ。したがって「生い立ち」も、種々の「宗教」「政治」「社会」思想も最終的に私をコントロールすることはできない。すなわち、マルクス主義もドスエフスキーも、マルローもフロイトもラカンも、彼らが私の精神構造のトラウマ、構成要素に最終的になることはない。彼らがもしいま生きていたなら、むしろ「私」の影響を受けていたろう。これに関してはまた別の機会にくわしく述べる。「生い立ち」を中心とする「全情況」もしかりだ。いわく私が半分中国人であること、その他もろもろの「情況」。私は最終的には、それらから「屹立」しているのだ。

・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く

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康芳夫

「兄貴、康さんを知っておられるでしょう」

私の依然の舎弟で、今出も渡世に励んでいる男が、ホテルの宴会場の人混みの中を縫うようにして近づいてくると、そう訊いたのは、昭和六十一年の晩秋のことだった。初めての単行本が好調に売れたので、版元の出版社が全国的に協力してくれて、「安部譲二の再出発を祝う会」というのをやった時のことだ。

永く暗黒街に棲んだ私の祝いなので、版元が以前の業界の者も招いたら・・・・・・と言ってくれたから、三五〇人の招待者のうち五〇人はヤクザという、珍しい会になった。出版関係の人たちや作家と、刀傷の光る指の欠けた渡世人が、和やかに語り合ってる中に、私が現役の頃、右腕として手下の筆頭を務めていたこの男も、嬉しそうな顔で混ざっていたのだ。

「康って、あの東大を出たっていう変わった顔の男かい。そいつだったら知合いというより顔見知り程度のことだが、なぜ・・・・・・」

異相の呼び屋・康芳夫:「欺してごめん」安部譲二『与太高から東大、そして呼び屋へ』

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