虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より
風雲児・神彰(1)
大学ではまともに授業に出たこともなかった私だが、何とか卒業することになった。すると、石原慎太郎が「劇団四季を受けないか」と誘ってくれた。当時、石原慎太郎と浅利慶太が一緒に劇団四季のフランチャイズともいえる日生劇場の取締役をやっていた。日生劇場は、あの二人が五島昇に作らせたようなものだった。その関係で私に声をかけてくれたのだ。
私は、さっそく試験と面接を受けた。石原慎太郎の紹介もあったので受かるだろう、と気軽に考えていたが、みごとに不合格の通知を受けてしまった。後から石原慎太郎にきいた話によると、浅利慶太が「試験の成績は抜群だけれど、石原、あいつはやばいからやめておこう。きっと後で何か災いを起こす予感がする」と、強く推薦する石原を押しきって反対したらしい。
彼も申し訳なさそうに、私に話してくれた。しかし、私も全然、気にならなかった。もし、合格していても「演劇プロデューサー」という役割にきっと満足しきれずにすぐに辞めていただろう。きっと、浅利慶太の反対を押しきって、突拍子もない企画をぶちあげていたにちがいない。そういう意味では浅利慶太は「人を見る目」があったのかもしれない。彼も結局はただの「演劇プロデューサー」「演出家」に満足せず、私が構想したと同じ「総合プロデューサー」として活動した。
・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く
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昔、神彰という伝説的な興行師がいた。一九六〇年代に、ソ連のボリショイ・サーカスを始め、当時ではまだ珍しかった海外の呼び物を数多く催し、呼び屋の風雲児としてマスコミで話題になった人物である。 #康芳夫 pic.twitter.com/84cYAoTFsm
— 康芳夫(国際暗黒プロデューサー) (@kyojinkouyoshio) September 19, 2018
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