作家 天野哲夫さん 11月30日 肺炎のため82歳で死去(夕刊フジ(2008年(平成20年)12月13日)
「どこか日本人離れした超然とした風貌が印象的だった。酒席をともにしても乱れることなく、ふだんから寡黙な人で、まれに見る奇矯、奇怪な人物だった」。天野さんと親交のあったプロデューサーの康(こう)芳夫氏(61)は振り返る。
福岡県出身の天野さんは終戦後、20代前半で上京。
いくつかの職を経た後、「週刊新潮」の校正者として新潮社に勤務した。
そのかたわら、耽美的作風の小説やエッセーを日本初のSM雑誌「奇請クラブ」などに連載し、作家活動に入った。
「新雑誌『血と薔薇』の創刊時、執筆依頼のため都内のホテルで会ったのが最初。執筆を固辞したが、何度も説得して口説き落とした」(康氏)
世間にその名が知られるようになったのは、1970年に単行本が刊行された沼正三著「家畜人ヤプー」をめぐる騒動。白人女性が支配する未来の宇宙帝国で日本人男性が家畜として飼われる、という物語だ。
「家畜人ヤプー」めぐり大騒動に
過激な性描写と政治性が問題視されたが、作家の三島由紀夫や澁澤龍彦らはその文学性を高く評価し、「戦後最大の奇書」としてベストセラーになった。
「作家と間違われた三島氏に右翼が怒鳴り込んできた時は、逆に『だからお前らはダメなんだ』と一喝したそうです」(康氏)
「ただ、作品がここにある。それでいい」
覆面作家・沼正三の正体については、三島や澁澤、さらには当時の判事の名前まで取りざたされ、関連本が出版される騒ぎに発展したが、82年に天野さんが「自分が書いた」とカミングアウト。その真偽をめぐって議論はさらに紛糾した。
告白後、天野さんは沼正三としても活動。「ヤプー」の続編や「禁じられた青春」「異嗜食肉作家論」などのエッセーや小説を発表したが、ある日を境に一転、
「私は沼正三の代理人」
と説明を変えた。
「書籍化にかかわったので、私は真実を知っています。説明を変えた天野さんの真意はわかりませんが、あえて謎を残したのは彼なりの意図があるのでしょう」と康氏は言う。
康氏によると、ある時、三島が「あなたが沼か」と天野さんを問いただした。
それに対し天野さんは静かにこう言ったという。
「どちらでも構いません。ただ、作品がここにある。それでいいではないですか」
作家は最後に大きな謎を残して逝った。
(安里洋輔)