沼正三のプロペラ航空機:劇的な人生こそ真実(萩原朔美:著)

劇的な人生こそ真実―私が逢った昭和の異才たち

沼正三のプロペラ航空機・・・10

この日打ち合わせが終わってから、私は沼さんからマゾヒズムがどう変容していくのかを聞かされた。

それまで私は鞭打たれたり叩かれたりして苦痛を楽しむのがマゾヒストだとばかり思っていた。

ところが沼さんの話は整理され分類された病理分析のようだった。不思議なくらいよく理解できた。変態性が脱色されて、沼さんが変なのではなくヒトそのものが性にたいして妙なのだと思った。

岸田秀説だと、人は本能が壊れているのだそうだから、なんでも有りで不思議はないのだ。

沼さんの説は、マゾヒズムの窮極は、他者からまったく無視されること。自分の存在が無に思える状態の事だという。自身がただの1本の管でしかないと実感すること。その地平に移行するためにいくつかのプロセスを経るらしい。

私が覚えているのは、家畜願望症から便器願望症に移行するというプロセスである。家畜願望はその人のペットになることだから、まだ主従関係という人間的な関係がある。命令する、従うというコミュニケーションが存在しているのだ。

ところが主人の小水(時には固体)を飲む便器願望症になると、主人の方はペットではなく便器として認識しているから、無視の強度が増していることになる。ここが重要なのだ。

ペットとして人格を否定されるよりも、モノとして、しかも最も忌み嫌われる便器になること。便器になれば、他人から完全に無視される。ただの、便器になった口腔を入り口として1本の管に変貌できる。

それがマゾヒズムの窮極の至福の状態なのだ、というのである。鞭で打たれる人格の無視よりも、便器と思われ無視される方が、それはどうみても激しい。

考えてみると、私は自分の性の傾向を熟慮したことがほとんどなかった。愕然としてしまう。分析解明し、ひとつひとつの行為に名称を与えたことがあったのか。まったく何もしていないのだ。考えたことは皆無である。正常であるかも異常であるかさえも認識がない。あるのは、時間の長短の浅知恵や、ポルノで見知った凡庸な行為との比較という、ばかばかしい限りの視座に留まっている。まったくもって情けない現状である。

おそらく、自分の性が多くの人とどうやら違うようだと感じた人だけが、性を真っ当に考え始めるのではないだろうか。

・・・次号更新【沼正三のプロペラ航空機:劇的な人生こそ真実(萩原朔美:著)より】に続く

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