都市出版社版『家畜人ヤプー』(1970年発行)

逆ユートピアの栄光と悲惨・・・3

ユートピアは、往々俗識に背いて、アンチ・ユートピアの形をとることも、言い添えておく必要がある。簡明に、影像的比喩として語るならば、けだるい逸楽的な大気に包まれた田園に、獣類、鳥類、植物、魚貝類、さらにはもっと下等な茸や菌の類とさえも交感が成立し、無数の裸の男女が懶惰(らんだ)なオルギアを繰り拡げるイエロニムス・ボッシュの『悦楽の園』がユートピアを写しているならば、固い大気と岩山、そして噴き出す有毒な?の中で異形の怪物どもに苛まれてやせた裸形をひきつらせるディルク・パウツの『地獄』もまた、ユートピアの情景に違いないのだ。そうではないか。荒涼たるシテールの島に黒々とそそりたつ絞首台、そして鴉に眼球をえぐられ、腐った臓物を啄まれる罪人の死骸こそ、ボードレールの魂が、何よりも十全な自らの表象として、切実に希求したものでなければならない。それは、断じて、甘い吐息に満ち、桃金嬢花(ミルト)と薔薇に飾られて、山鳩の鳴きかわす悦楽の島影であってはならなかった(『シテールへの旅』)。

もうひとつ言っておかねばならないことがある。それは、真正のユートピアンとは、システマティックな方法的精神、営々と煉瓦を積み上げていくていの散文的、構築的精神の持主でなければならないことである。一個のユートピアが、一個の反世界、一個の世界の完全なミニアチュールを形造るためには、そこに住む住民ともども、政治、経済、法律、教育、軍隊、等、かれらのための社会的基盤が不可欠のものとして要請されるからである。その意味で、トマス・モアの『ユートピア』は、ユートピア譚の始祖たるに恥じない、本格派としての骨格を立派に備えていると言えよう。

・・・次号更新【逆ユートピアの栄光と悲惨:家畜人ヤプー解説(前田宗男)より】に続く

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