石原慎太郎 総隊長 ネス湖探検隊:サンケイスポーツ(昭和48年8月11日)より抜粋

石原慎太郎さんご逝去

小生は東大在学中に石原さんが芥川賞受賞後、五月祭に岡本太郎、武満徹、谷川俊太郎、諸氏と一緒に「新しい芸術の可能性」と銘打った大座談会を開催し注目を集めたがギャラ500円しか払わず石原さんに強いクレームをつけられた。それがきっかけで仲良しになり後年のかのネス湖国際探検隊で石原さんが総隊長に。

総隊長は小松左京氏に内定していたのに石原さんが云ってみれば強引に出てきて総隊長に就任したということだ。

これは如何にも石原さんらしい話だがいずれにしても小生がムハマドアリ日本招聘を始めとし種々の国際的プロモーションを展開出来たのも女流作家だった有吉佐和子さんを通じて当時夫だった国際プロモーターの神彰氏につなげてくれたのも石原さんである。

作家としての石原さんは処女作「太陽の季節」は平凡な青春恋愛小説としてもその後の作品の何作かは彼独自の「生の哲学」の匂いがあり小生はファンの一人である。

ネス湖国際探検隊は「聖なる生き物」ネッシーを日本の探検隊が探しにくるということで国際的に話題となったが、国内外の主要メディアは極めて辛辣に対応した。

云ってみれば天皇陛下の墓を外国人が掘削に来る様なものだったのだ。これは小生としてもかなり以外な結果だったが、一番被害?を受けたのは当の石原さんだ。

当時始めて都知事選に立候補し当時の美濃部知事に約12万票の差を付けられ敗北。朝日新聞が「石原慎太郎初の挫折」というタイトルが社会面一面の記事にした。

その後、中央政界に進出一時は総理大臣の座を狙う状況にあったが、結局運輸大臣どまりで中央政界引退。

よく冗談半分で君とネッシー探検に行ったお陰で都知事選に落選したと文句を云われたのを覚えている。

考えてみると大俳優になった弟を含めて石原兄弟は良くも悪くも典型的な湘南ボーイ。東京っ子が恥ずかしくて出来ないことを堂々とやってのける。

云わば超高度情報社会の典型的トリックスター。大衆社会の小市民、市民層が彼を圧倒的に歓迎したのも日本人リーダーとして珍しく云いたい事を云ってのけそれが彼等のフラストレーションに火をつけたということだ。

小生としてはお世話になりぱなしで本当に申訳ないと念じている。

心からご冥福をお祈りします。

草々 康芳夫

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