「家畜人ヤプー」贓物譚(ぞうぶつたん):『潮』昭和58年(1983年)1月号

天野哲夫は、倉田卓次はアイデア提供者として認めている

ところで、この時天野哲夫は、倉田卓次はアイデア提供者として認めている。

では、どこで知り合ったのか?と森下は書く。

森下小太郎は、『マゾヒストの手帖より』を連載していた沼正三が倉田卓次なら、58年に黒田史朗のペンネームで『奇譚クラブ』に登場する天野が、文通して知り合うことは可能だとする。自分の体験と重ね合わせたのだろう。

問題は、『マゾヒストの手帖より』である。これはドイツ語の語学力が問われるもので、この点、天野哲夫ではおぼつかないとしている。

さらに、角川文庫版のあとがきで、沼正三は、〈ある白人ドミナと私との文通を仲介することで、宿構の文思に天籟(インスピレイション)の翼を与えるのを手伝って下さった谷寛太氏の好意をもなつかしく想起する〉と書き、谷寛太は森下のペンネームだから、沼正三は、森下と文通していたことを認めていることになるという。

これに対するを、この二度の森下の論考に対する反論が『潮』83年1月号の天野哲夫の〈家畜人ヤプー 贓物譚 ぞうぶつたん〉である。

天野哲夫は、ここで、『奇譚クラブ』の編集発行人、吉田稔から匿名投稿の幾つかを取りまとめ、〈連鎖エッセーの形式で誌上に発表する〉よういわれ、〈投稿原稿の手入れと編集、加筆潤飾に自身の分をも組み込みつつ、その連鎖エッセー(これが『ある夢想家の手帖から』(引用者・註『マゾヒストの手帖より』として連載))の筆者としての統一的人格を作りあげるよう努力した。〉これが沼正三いう名前を作った由頼である。

・・・次号更新【連載「沼正三」をめぐる謎 高取英】に続く

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