虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より
中国人医師の父(1)
私の父、康尚黄(しょうおう)は戦前、東京都千代田区西神田で「西神田医院」という医院を営みながら、当時の蒋介石政権最後の駐日大使、許世英の侍従医をしていた。出身地が同じという地縁から要請されたらしい。九歳から日本に来て、大学の医学部に進み日本で開業していたのだ。そもそも父がなぜ日本に来たか、という理由には実にさまざまなドラマがあったようだ。そしてそのドラマを構成する背景となった戦前から戦後にかけての日本と中国の複雑な関係が、私たち家族全員の歴史といってもいいぐらい私の人生との間に密接にからまりあっている。
私の祖父、つまり親爺の父親は中国の安徽(アンホイ)省の生まれで、若い頃から景徳鎮で陶器の事業を興し成功をおさめていた。しかし、祖父は同時に当時勃興してきた孫文派の革命運動にも身を投じていた。血気さかんな祖父は、その活動歴から当時の清王朝の女帝、西太后に追われていた。それで、日本に逃げてきたというわけだ。当時の法律学校、市ヶ谷にあるいまの法政大学に留学生として少しだけ籍を置いていた彼は、しばらくしてから、九歳になる息子、つまり私の父をそのまま日本に残して再び中国に帰ってしまった。いわば獅子が、「かわいい子を千仞の谷に突きおとす」というやり方だ。ただし生活費、学費は充分に託していったのである。たった九歳の日本語も話せぬ父は、ただひとり日本に残され慶応の幼稚舎に入れられた。しかし、学校の寄宿舎には入らず、縁あって当時発明王にして、日本の経営コンサルタントの草分けとして著名だった荒木東一郎さんの一族が経営していた、神田三崎町の「中国人留学生」専用の「宿」に下宿させられたのだ。ちなみに、この荒木さんは有名な文学座の女優、荒木道子さんの叔父にあたる。その荒木道子の息子が俳優で歌手の荒木一郎だ。
・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く
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五年越しの悲願−−−ゴングが鳴った瞬間、私はこの「夢のストーリー」は完結していた。アリをめぐって自分が闘ってきた数年間が、ふっと思いだされれくる。やはり人生そのものが芸術なのだ。
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