虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より
中国人医師の父(2)
荒木一郎の母親の叔父のところに下宿していた父は慶応幼稚舎から慶応大学医学部に進み、内科・小児科の医者になって昭和六年に神田神保町との境目あたりの西神田二丁目一◯番地で開業する。そして、開業してから二年目の昭和八年、日本人の母巽と結婚した。
当時、私の母の姉のご主人が水野さんという警視庁の嘱託獣医で、彼が下宿先の荒木さんと懇意にしておりそれが縁でふたりは出会ったらしい。ふたりの出会いは大恋愛に発展したが、当然、まわりの人間は猛反対した。当時は中国人と日本人の結婚など家族は絶対に認めたがらない。ましてや、日中関係が複雑になりはじめた時期だ。いまでも日中関係は戦後からのやっかいな部分を引きずっているが、当時の状況とはまったく比べものにはならない。日本人と中国人の結婚も最近はようやく増えてきたが、その頃は、ご法度といってもいいぐらいのものだった。しかし、大恋愛の末ふたりはそんな障害を乗りきって結婚した。ある意味でとても素晴らしいことだといえる。しかし、そう簡単に美しくロマンチックに終わらないのも現実というものなのだ。
私が生まれたのが昭和一二年五月一五日。西神田医院の一室で生まれた。実は私にはふたりの兄と姉・妹がいるのだが、上の兄と姉は死産だった。だから、二歳年上の長兄は実際には次男で、私は三男というわけだ。私たちの家族には大使館からの配給があって、戦時下にもかかわらず、食料には恵まれていた。ほとんど何でも手に入った。だから母の健康面は肉体的には何ら問題はなかった。ただ精神的に相当まいっていたのだ。このふたりの死産も、当時、精神的に母が深く悩んでいたことが大きく影響したらしい。周囲の反対を押しきって結婚した母だったが、夫婦間はうまくいっても環境の変化に彼女が傷ついたり、悩んだりしたのは想像にかたくない。どんどんと悪化する日中関係と、それにともなう近所の人やまわりからの雑音に想像以上に苦しめられたのだろう。死産というのは母体の精神的なストレスが一番影響するといわれている。後年、母から「当時は一種のノイローゼ状態だった」と聞かされたことがあるが、いま思うと下手をすれば私も死産だったかもしれない。そして、生まれてから数年後、そんな母の気持ちを、私自身もいやというほど、肌身で感じることになるのだ。
・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く
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マスコミの連中から毎回、同じ質問を浴びせられるのだ。
「何でこんなことするんですか?」と。
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