虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

高校入学、闇市に通う(1)

中学を卒業して私は、海城高校という学校に進学した。海城といえばいまは大変な進学校で有名になったが、当時はまさに不良学校で誰でも入学できた。競争率もゼロコンマ台、つまり定員割れだったのだ。

実家も神田から新宿の百人町に引っこしていた。海城中学とは目と鼻の先だ。私はその後、大学に入学するまでこの百人町で育った。

いまでこそ百人町はアジアタウンとしてすっかりさまがわりしてしまったが、当時はそれこそ大内兵衛、江藤淳一族などが住む静かな住宅街だった。

日本も戦後の廃墟から徐々に復興をとげはじめていた。しかし、歌舞伎町などはいまだ無残な焼け跡の臭いに満ちていた。いまでも、高層ビル群になった新宿西口や歌舞伎町あたりを酔っ払って歩いていると、ふと、当時の街並みが思い浮かんでくる時がある。風林会館も何もない。ビルも骨組みだけ残してすべて爆撃でやられている。いまのコマ劇場あたりまでずっと何もない、まさに廃墟が広がっている、ガラクタの街だった。あるのは、伊勢丹の隣にあるバラック建ての闇市ぐらい。そこが、家から歩いて数分の私が育った街だったのだ。

・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く

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『勝手にしろ!』---ベンガルのトラの嘆き:東京新聞(昭和52年2月9日)

康氏の企画した死闘ショーは一月八日付「こちら特報部」でご紹介したように、二月五日ハイチの首都ポルトープランスのサッカー場に二万八千人の観客を集め、テレビ中継のカメラの前で行われることになっていた。・・・『勝手にしろ!』---ベンガルのトラの嘆き:東京新聞(昭和52年2月9日)

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