「覆面作家は高裁判事」東大卒のエリート:東京新聞(1982年(昭和57年)10月2日(土曜日))

逆ユートピアの栄光と悲惨・・・14

何にまれ、久しく保持されてきた視座をくつがえし、新しい地平を開くには、思い切った転換が必要となるが、マルクーゼの構想が、歴史的過程のうちで失われた過去の神話時代への回想を根底にもっていると言うならば、ヤプーの幸福の源泉は、現在のわれわれが余りに失いつくしてしまったものの、グロテスクに拡大された戯画であると、言えば言えるであろう。

実を言うと、ヘルベルト・マルクーゼとともに、私の頭脳内に浮かんでいたもうひとりの人物がある。「モノスとウナの対話」を書いたエドガア・アラン・ポオの顔である。

『モノスとウナの対話』---死者の対話という形式をとった、この奇妙な物語の前半は、痛烈な文明批評の態をなしている。詩人の予見力とは恐ろしいものだ。十九世紀の中葉にあって、河川と海を、そして大気すら失いつつある現代の深刻な自然喪失のさまを正確に洞察していたこの酔いどれ詩人の慧眼は、ヒューマニズムと「進歩」への無邪気な信仰のもとで、西欧文明の合理主義がどうしようもない自己増殖のメカニズムにしたがってどんなに極端なところまでゆき着くか---その破滅に至る必然的な運動の図式を透視していたもののようである。ポオは書いている。

ああ、我等は、最も呪わしい日に息絶えたのだ。大いなる「運動」---これが合言葉だった---はやむことがなかった、精神、物質両面の病める混乱が。技術(アート)は至上の勢いで興り、ひとたび主権を掌握するや、おのれを権勢の地位に押し上げてくれた知性の上に鎖を投げかけて、これを縛した。人々は、自然の主権を認めざるを得ぬ故に、おのれが自然の領域に対して既に獲得し、猶拡大しつつある支配権を思って、子供じみた狂気に陥っているのだ。手前勝手な空想をもっておのが身を神に擬している時にすら、子供じみた愚昧さが彼等を領していた。人々の混乱の起源からも想像されるように、彼等は体系(システム)と抽象(アブストラクション)という病気に感染していった。彼等は普遍性のうちに自らを閉じこめた。他の奇態な観念の中にあっては、万人平等の観念が地を占めている。そして、類推(アナロジー)を無視し、神をないがしろにして、---天地の万物の間に明瞭にゆきわたった序列(ヒエラルキー)の掟があげるかまびすしい警告の声をしりめに---絶対普遍の万人平等(デモクラシー)が狂おしく企てられた。とは言え、この悪弊は、その母胎をなす悪弊、すなわち知識から必然的に派生したものなのだ。人間は、知ることと屈従することとを同時には行ない得ない。とかくするうちに、煙を吐く巨大な都市が無数に興った。緑の樹葉は鎔鉄炉の熱い息吹の前に身をおののかせた。美しい自然の顔貌は、忌わしい業病に荒廃せられたかのごとく歪んだ・・・・・・

このポオの引用を透かしてイース世界を眺めた時、それはどのような様相を呈するだろうか?

諷刺の矢は、元来、全く予期せぬ方角から飛来して肉に喰い入る時、最も深く急所を穿つものである。『家畜人ヤプー』が含んでいる鋭い批判の毒の吟味は、読者めいめいにお任せするとしよう。

・・・次号更新【逆ユートピアの栄光と悲惨:家畜人ヤプー解説(前田宗男)より】に続く

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