気になる原稿用紙の矛盾点

戦後最高のSM奇書「家畜人ヤプー」の覆面作家と名指しされた 東京高裁 倉田判事の空しい反論:週刊文春(昭和57年 10月14日号)

戦後最高のSM奇書「家畜人ヤプー」の覆面作家と名指しされた 東京高裁 倉田判事の空しい反論:週刊文春(昭和57年 10月14日号)

どの手紙も、『ヤプー』を書いた本人でなくては、書けない内容ばかり。ドリス宛の手紙は、マゾヒスト・沼正三の面目躍如たるものがある。

筆跡鑑定を含め、天野哲夫氏に手紙のコピーをごらん頂いたところ、

「うーん」

と、天野氏は一瞬絶句。

「確かに、倉田さんの字によく似ていますね。この手紙を見せられたら、手紙の主が作者だと考えるのは不思議はないですよ。しかし『ヤプー』を書いたのは僕なんだ。

どうしてこんな風に書いたんだろう・・・・・・。ショックです。驚いた。今は頭が混乱してますので、頭をほぐしてから、倉田さんに連絡をとってみます」

強力なカウンター・パンチを浴びたかっこうの天野氏だが、ロープぎわへ退きつつ、

「しかし、倉田さんと特定するのは、断じてあやまりです!」

その声をあとに、天野氏宅を辞去した直後、妙なことに気がついた。

『ヤプー』第一回が『奇譚クラブ』に発表されたのは、昭和三十一年の十二月号であった。そして天野氏が現在の新潮社に入社したのが、昭和四十二年。

『ヤプー』のオリジナル原稿が新潮社の社名入りというのは、ちょっとヘンだ。

作家の渋沢龍彦氏が興味深げに語る。

「角川から『ヤプー』が文庫になる前、三島由紀夫さんのお宅で話をしたんです。

『作者は、長野県に住んでいて、信州大学の教授ではないか』と三島さんは言ってたね。

天野君という人は、私の家に来た時、

『私は沼正三の代理だが、その人の名前は言えない』

と言っていたのを覚えてますよ。私は天野君の書いたものを読んでますが、全く『ヤプー』の文章とは違う。その判事が『ヤプー』の作者だと思いますよ」

『ヤプー』の単行本を最初に出版した都市出版社の元社長・矢牧一宏氏は、『奇譚クラブ』への連載中、天野氏を沼正三とみていたらしい。

「単行本を出した後、『奇譚クラブ』の吉田社長から、私の所へ手紙が来ましてね。それには、『あなたは、ヤプーの著者は天野だと思っているようだが、彼は著者ではない』と書いてありました。はっきりと沼正三イコール天野哲夫ということを否定した文面でした」(矢牧氏)

この吉田氏に真相をたずねれば、コトは一挙に解明されるのだが、残念なことに今年の一月逝去されている。

矢牧氏が続ける。

「単行本をつくるとき、『奇譚クラブ』の現物だったが、コピーだったかに、作者の書き込みの赤をいれた原稿がついてきました。その赤の字が、天野さんの字と違うんですよ」

都市出版社では、天野氏の申し入れで、普及版のあと、豪華本を作るのだが、普及版にはなかったあとがきを豪華本に入れることになった。

・・・次号更新に続く