オヤジのこと

虚業家宣言:康芳夫

私は昭和十二年、東京・神田で生まれた。香港に兄が、それに妹がひとり、アメリカにいる。

オヤジは中国人だが、慶応の医学部を出て神田で開業していた。慶応時代には、藤山愛一郎氏と初等科からずっと一緒だったという。むろん、藤山氏は経済に進んで、その後の進路はまったく別々になってしまったわけだがオヤジとの交友は今も続いている。母は日本人である。

私はオヤジから中国人のコスモポリタニックな性質を受け継ぎ、母から日本人の緻密な頭脳を譲り受けた。オヤジは自分が中国人であることに誇りを持ち、帰化しようなどとは決して考えなかったから、今でも私の籍は中国にある。

オヤジが蒋介石政府の最後の駐日大使と言われた許世英とたまたま同郷人(安徽省)だったことがオヤジの運命を大きく変えた。許世英が日本に赴任したときに大使館付の医師として徴用されたのである。日中の間は微妙に揺れ動いている時代だった。南京政府ができるとオヤジも南京側へ引っ張られてしまった。

華僑の例を見てもわかるように中国人には多分にコスモポリタニックな面がある。私の祖父が日本へ来たのもそうだし、オヤジが簡単に南京へ出て行くのも、その現われだろう。

南京政府はしかし、長続きしなかった。南京政府崩壊と同時にオヤジは戦犯として逮捕され、香港に連行された。むろん当時の私に詳しい事情のわかろうはずもなかったが、あのときの母や兄の悲痛な顔というのは、いまだに記憶のひだに灼きついて離れない。親しくしていた大使館員たちが次々と処刑されていったときにはオヤジも死を覚悟したという。

だが、幸運なことにオヤジが留置中にコックと医者は無罪放免という指令が出、オヤジは命からがら日本へ帰って来た。

・・・・・・次号更新【空想好きな問題児】に続く

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『虚実皮膜の狭間=ネットの世界で「康芳夫」ノールール(Free!)』真の虚業家の使命は何よりも時代に風穴を開け、閉塞的状況を束の間でもひっくり返して見せることである。「国際暗黒プロデューサー」、「神をも呼ぶ男」、「虚業家」といった呼び名すら弄ぶ”怪人”『康芳夫』発行メールマガジン。・・・配信内容:『康芳夫の仕掛けごと(裏と表),他の追従を許さない社会時評、人生相談、人生論などを展開,そして・・・』・・・小生 ほえまくっているが狂犬ではないので御心配なく 。

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