遠足から抜け出して退校
『暁星』を飛び出すチャンスは意外に早くやって来た。一年の秋、遠足があった。その頃、都心の小学校の遠足というと必ずそうであったように、『暁星』でも一年の遠足は井之頭公園に行くのが慣例になっていた。が、井之頭公園に着いたとたん、私は嫌になってしまった。
「もうこれ以上、団体行動はゴメンだ」
黙ってひとり列から抜け出すと、そのまま吉祥寺の駅から中央線に乗り神田のわが家に戻ってしまった。だが、いくら大人びていたとはいえ、やはり、まだ小学一年生である。吉祥寺から乗った電車が急行で、降りるはずの水道橋駅を通過、ビックリしたことを昨日のことのように覚えている。
翌日、『暁星』の校長と担任教師がわが家にふっ飛んで来た。
「なんとか自発的に退校してくれ」というのだ。懇願に近かった。
オヤジもさすがにイヤだとは言えなかったらしい。今でも、「あのときほど困惑したことはなかった」とよく言う。
以後、私は学校を数回変わった。どこへ行っても同じことだった。学校のつまらなさに変わりがあるわけではなかった。私は十代にして人生の退屈をイヤというほど味わったのである。
戦時中も、オヤジの人徳のせいか、私は一度も”中国人”ということを意識させられたことはなかった。いや、一度だけ、たった一度だけだが、こんな経験があった。
その日、いつものように学校へ通う途中の私の前に、妙な男たちが現われたのである。今から考えると、当時の不良中学生だったらしい。
「待て、オイ、チャンコロ」
”チャンコロ”が中国人に対する蔑称だということは知っていた。知っていたから、黙っていた。すると組みしやすしとみたのか相手は図に乗ってきた。
「オイ、返事ぐらいできんのか」
「生意気に制服なんか着やがって」
「オマエのオフクロはよォ、チャンコロにやられたのかよォ」
むろん、相手は私の母が日本人だということなど知っているはずがなかったから、ただ、当てずっぽうにそう言ったのだろう。だが、その一言を耳にしたとき、私はカッと全身が熱くなるのを感じた。母を侮辱した奴はたとえ日本人だって許せない、そう思った。
次の瞬間、私は一番近くにいた男の股間を思いっきり蹴り上げた。不意をつかれたその男は、奇妙なうなり声を上げてその場にへたり込んでしまった。回りの連中が事の次第を悟ったときには、私はもう一目散に逃げ出して、一町も先を走っていた。
あのとき、確かに、私は自分が中国人だということ、少なくとも、純粋の日本人ではないんだということを意識したのだと思う。今の私はもう国籍など、どうでもいいような心境に達しているが。
戦争はいつの間にか終わっていた。
・・・・・・次号更新【衝撃を受けた山崎晃嗣の死】に続く
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『虚実皮膜の狭間=ネットの世界で「康芳夫」ノールール(Free!)』真の虚業家の使命は何よりも時代に風穴を開け、閉塞的状況を束の間でもひっくり返して見せることである。「国際暗黒プロデューサー」、「神をも呼ぶ男」、「虚業家」といった呼び名すら弄ぶ”怪人”『康芳夫』発行メールマガジン。・・・配信内容:『康芳夫の仕掛けごと(裏と表),他の追従を許さない社会時評、人生相談、人生論などを展開,そして・・・』・・・小生 ほえまくっているが狂犬ではないので御心配なく 。
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