衝撃を受けた山崎晃嗣の死
中学、高校と進んだが私の団体生活嫌いはいっこうに直らず、学校にいる時間より新宿で過ごした時間の方が長かった。
時代は野坂昭如言うところの”焼け跡、闇市”の時代の末期であった。伊勢丹の隣には、まだ、バラック建てのマーケットが軒をつらね、歌舞伎町にはヤンキー相手の連れ込み旅館が乱立、夜昼かまわず満員で、部屋を求めるヤンキーとパンパンの嬌声が、真っ昼間も絶えず聞こえていた。喧燥と混乱と頽廃が渦巻いていた。今の新宿駅からコマ劇場の前まで、建物らしい建物は一軒もなかった。
まだまだアナーキーな時代だった。狂乱怒濤の時代であった。太宰治が心中した(二十二年六月)。帝銀椎名町支店で大量殺人が発生した(二十三年一月)。下山事件、三鷹事件、松川事件という戦後史に残る三大怪奇事件がわずか一ヵ月あまりの間に連続して起こった(二十四年)。
二十五年九月には光クラブの山崎晃嗣が自殺を遂げた。山崎が資本金三百万円で光クラブを設立したのが二十三年、山崎は東大法学部の三年生、まだ二十七歳の青年だった。現金五十万円について十日で一割の利息------俗にトイチという高い利子で会社に金を貸し莫大な利益を上げていた。女性関係も派手だったという。それが、物価統制令違反にひっかかり京橋署に摘発されたのである。二十五年七月のことだ。そのため光クラブの信用はガタ落ちになり三千万円の債務を負ったまま、山崎は九月二十四日、社長室で自殺したのであった。
日頃から、「人生はドラマだ。ぼくは、そこで脚本を書き、演出し、主役を演ずる。その場合、死をも賭ける。死そのものをぼくは大仰に考えない」と壮語していた山崎に、それは、ふさわしい死であった。私は当時、新聞で読んだ山崎のこの言葉を、今でも一字一句、まちがわずに覚えている。山崎の生き方、そしてその死に方は、早熟だった私に強い衝撃を与えたのである。
二十五年七月には金閣寺が林承賢という二十一歳の青年僧の放火によって焼失した。桜木町事件(二十六年)、東大ポポロ事件(二十七年)、血のメーデー(二十七年五月一日)、木星号遭難(二十七年四月)、内灘闘争(二十八年)、砂川闘争(三十一年)・・・・・・。
当時の新宿を支配していたもの、それは極東組と関根組だった。
・・・・・・次号更新【人づき合いの良さが身上】に続く
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