人づき合いの良さが身上
私が極東組や関根組の連中とつき合うようになった---といっても、ヤクザ稼業に足を踏み入れたというわけではないが---のはひょんなキッカケである。私のオヤジは前にも書いたように中国人の医者だったから、戦後の配給制の下で、一般の日本人よりずっと優遇されていた。当時貴重品扱いされていた砂糖、米などが、わが家には余るほど配給される。いつからか、私はそれを持ち出して金に代えることを覚えたのである。赤ザラ一キロ持って行けば、楽に一月分の小遣になった。
それにつき合ってみると、それらの組員たちは単純でむしろ気のいい連中ばかりだった。特攻隊を志願、基地のあった鹿屋まで行きながら、ついに一度も飛び立たずに帰還したA、共産党くずれのB、広島で一瞬のうちに家族全員を失い、自分も後遺症に苦しんでいたC、彼らに人間の辛さ、哀しさというものを肌で理解できる男たちだった。彼らは私をかわいがってくれた。私の中に、自分たちと共通する、ある種の”負い目”を見ていたのかもしれない。
しかし悪銭身につかずとはよく言ったものだ。私は儲けた金をすべて新宿二丁目、当時のそこは赤線地帯と呼ばれる所だったが、そこで一銭残らず、使ってしまった。どうしてあの頃の二丁目には、あんなに心やさしい女たちが多かったのだろうか。彼女たちは決して私を尊敬もしないかわりに、馬鹿にもしなかった。
私の人づき合いの良さは天性のものだといってもいい。それが私の大きな財産でもある。当時の高校にはさまざまな学生がいた。共産党の細胞として活動している者もいた。私は彼らともつき合った。一方、硬派といわれる運動部の連中にも顔がきくのだった。そして、女をタラし込むことを生き甲斐にしているような、いわゆるナンパ師とも親しくしていた。私はどこにでも首を突っ込んでは、自分の興味を満足させていた。
・・・・・・次号更新【生涯のテーマを決めさせた”血のメーデー”】に続く
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『虚実皮膜の狭間=ネットの世界で「康芳夫」ノールール(Free!)』真の虚業家の使命は何よりも時代に風穴を開け、閉塞的状況を束の間でもひっくり返して見せることである。「国際暗黒プロデューサー」、「神をも呼ぶ男」、「虚業家」といった呼び名すら弄ぶ”怪人”『康芳夫』発行メールマガジン。・・・配信内容:『康芳夫の仕掛けごと(裏と表),他の追従を許さない社会時評、人生相談、人生論などを展開,そして・・・』・・・小生 ほえまくっているが狂犬ではないので御心配なく 。
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