「家畜人ヤプー」贓物譚(ぞうぶつたん):『潮』昭和58年(1983年)1月号より

死者の国から呼び戻された幽霊・・・・・・(1)

昭和三十四年であったか、三島由紀夫氏の推輓を得て、非公式ながら中央公論社・金子鐵麿氏との接触があった。この折より、私は沼正三当人でなく、代理人を名乗る。それも私自身が名乗り出ての売込みではない。『ヤプー』はあくまで怪しき異端の文である。三島氏の私への呼びかけは、人を介してのことではあるが、当初は信じられぬことであった。

『金閣寺』で読売文学賞受賞、やがて『宴のあと』発表直前の、華々しい第一線の一流作家・三島氏の表立っての推輓が、私にはどうしても信じられないことであった。連絡は、さる人を介してのことではあるが、その人の言をも私は信じられなかった。しかし、これは偽りのない事実であることを私は知ることになったのである。金子氏も、さる人も、まだご健在のはずである。

いかなる事情あったかは知らず、『ヤプー』出版はその折は実現せず(深沢七郎氏『風流夢譚』事件を云々する意見もあるが)、閲すること茫々の十余年。澁澤龍彦君責任編集を謳い文句の『血と薔薇』誌(天声出版・神彰氏主宰)より、ツテを求めて熱烈なラヴコールあり(直接には藤三津子君より、いきなり私の勤め先へ、故高橋鐵氏宅からよこした電話がきっかけ)、編集責任の矢牧一宏君、並びに社長・神彰氏と会い、同誌掲載を約定する。だが、矢牧君の収支償わぬ浪費がたたって雑誌三号を出したのみで彼は失脚、結局は、辛うじて増刊の形で出た同誌終刊号ともなった第四号で、一部、掲載に留まる。

編集責任はピンチヒッターを務めさせられた形の平岡正明氏、制作担当が呼び屋として話題の多い康芳夫氏という、珍なる名コンビであった。

・・・次号更新【「家畜人ヤプー」贓物譚(ぞうぶつたん)・・・『潮』昭和58年(1983年)1月号より・・・連載9】に続く