都市出版社版『家畜人ヤプー』(1970年発行)

誤解と思われることだけは指摘しておこう:家畜人ヤプー普及版(都市出版社)より・・・10

もちろん、否定的評価もある。その因果なことに、屈辱を喜ぶ私には、これがまた褒めことばと同じほどに嬉しいのである。太宰の『男女同権』の主人公は、自作の詩を誌上で女流詩人に酷詳され、喜びの余り感謝の電報を送るのだが、それを諧謔的誇張と読む人は被虐心理を主題とする作品を味わう資格がない。倉橋氏の「この作品は文学ではない」という立言葉が酷評と納得できたら、私も電報を打っていたかも知れないのだ。

否定的評価にあらがう気は全くない。むしろその逆の評価に対し、蓼喰う虫が増えたなと驚いている位なのだから。ただ、誤解と思われることだけは指摘しておこう。例えば、倉橋氏が「ヤプーが日本人のなれのはてであるとされているのはマゾヒズムとは関係のない仮説」とか「日本民族をヤプー化することにマゾヒズムの快感があるとは考えられない」とか言っておられるのは、正にマゾヒズム心理の観念性への認識不足に尽きる。詳しくは私の『手帖』を読んでいただくしかないが、この跋文で上来述べて来たところからでも大略明らかなことと思う。余人なら問わず、処女作以来、性的異常心理を重要素材とした作品系列を有する尊敬すべきペニスナイトの才女にこの言あるを惜しむ。

なだ氏は「内容的には恐怖物語なのだが、読むものに・・・・・・恐怖を感じさせない」のが「惜しまれる」と言われる。しかし、作者は、恐怖小説を書いたつもりは全くない(もっとも、「精神的恐怖」なるものを初めて味わったという評者もあるが)。正に、選ばれた読者に「マゾヒズム的快楽のイメージ」を与えるために書いたのだから、恐怖を云々されても困る。風変りなガラス建築に住みたいと思って設計したのに、ガラスだけでは地震に弱いと批評されたようなものだ。こっちの問題はガラスだけでどこまで居住性が獲られるか、なのである。もっとも、氏は、ガラスだけの建築という方法論自体好まれぬらしく、この小説は、発想の軸をマゾヒズムだけに求めていて、そのパターンを知れば誰でも引き継げるという点に、弱さがあり、だから文学上の問題性は少ない、と言われる。しかし、それが神話冒涜まで含めての意味なら従米のマゾヒズム概念の不当拡張であろう。涜神は本来サディズムの分野のことだから(氏は、まさかSとMとを表裏同一と見る俗説を奉じられるわけではあるまい)。つまり、氏は倉橋氏がマゾヒズムと関係ないと考えざるを得なかった段階の一歩先まで当然のマゾヒズムとして通過したことで、やはり論点を看過しているのだ。私は、氏の「文学上の問題とならぬ」という結論には、少しも反対しないが、このマゾヒズム観は安易だと思う。著名な精神医としての氏に、「マゾヒズムのことならわかっている」という専家のおごりがあったせいではなかろうか。

こんな調子で、多くの方々から賜わった批評の一つ一つに言及することはできない。それらはいずれ書くつもりの続篇に可及的に反映させることを約束して、この跋文を終るとしよう。

最後に、後れ馳せながら、三島由紀夫、奥野健男、澁澤龍彦、その他この書の初版本刊行まで種々御尽力いただいた諸氏と、単行本化を快く諒承して下さった『奇譚クラブ』発行者・箕田京二氏とに対し、形影相伴う仲である代理人天野哲夫君と相並び、ここに深甚の謝意を表しておく。

昭和四五年七月

著者

・・・了