虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より
懸賞論文に入賞(2)
私の「応募論文」は、みごと入賞した。立命館大学から学校に通知が来て、末川博学長のサイン入りのペンを朝礼で全校生徒の前で授与されたのだ。さらに、結局は行かなかったが、立命館大学には無試験で入学させます、学費も全額無料という案内も頂いた。
これには先生をはじめ学校中が驚いた。何しろ、ろくに登校もしないで、毎日、かつあげと赤線「遊び」にくるっていた不良生徒が懸賞論文に入賞したのだ。たしか、朝礼に出たのもこの時がはじめてだったと記憶している。先生たちの私に対する認識がこの時を境に一変してしまったのだ。
さらに、これ以降、授業で学校の先生を追いつめたりもした。それまで、学校がつまらなくて授業にはほとんど出なかったのだが、たまに出た時、憲法問題に関して先生を質問責めにして、答えられなくなった先生が半べそをかいたのを憶えている。
模擬試験でも、毎回全校で四、五番以内をとるようになると、学校中の先生が「あいつはただの不良じゃない。化け物だ」などと噂するようになった。これには妙な優越感を感じていた。
・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く
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「兄貴、康さんを知っておられるでしょう」
私の依然の舎弟で、今出も渡世に励んでいる男が、ホテルの宴会場の人混みの中を縫うようにして近づいてくると、そう訊いたのは、昭和六十一年の晩秋のことだった。初めての単行本が好調に売れたので、版元の出版社が全国的に協力してくれて、「安部譲二の再出発を祝う会」というのをやった時のことだ。
永く暗黒街に棲んだ私の祝いなので、版元が以前の業界の者も招いたら・・・・・・と言ってくれたから、三五〇人の招待者のうち五〇人はヤクザという、珍しい会になった。出版関係の人たちや作家と、刀傷の光る指の欠けた渡世人が、和やかに語り合ってる中に、私が現役の頃、右腕として手下の筆頭を務めていたこの男も、嬉しそうな顔で混ざっていたのだ。
「康って、あの東大を出たっていう変わった顔の男かい。そいつだったら知合いというより顔見知り程度のことだが、なぜ・・・・・・」
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