虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

石原慎太郎との出会い(3)

当時二五歳だった石原慎太郎は、会場だった安田ホテルにさっそうとシルバーグレーのベンツで乗りつけてきた。当時はベンツなどまだ日本にはわずかしかない。ベンツを乗りこなすその精悍でスマートな容姿はいまでもはっきりと頭の中に残っている。とにかく、これまでの日本の作家や文化人とは全然ちがう華やかな雰囲気を漂わせていたのだ。

だが、大成功のうちに終わったイベントの直後に、この石原慎太郎と私の間に、あるトラブルが生じてしまった。しかし、そのトラブルが私たちの人聞関係をより濃密なものに引きよせてしまう。

ティーチインが無事終了し、参加者たちと和気藹々懇談しながら私は・講師に謝礼を配ってまわった。中身は五◯◯円。いまの価値では一万円ほどだろう。その後、無事終了したと仲間と本部でくつろいでいると、夕方、急に電話が鳴ったのだ。いま頃誰だろうと思って受話器をとると、相手は先ほどの石原慎太郎だった。すると、話す間もなく彼の大きな怒りくるったような声が耳に響いてきた。「ふざけるのもいいかげんにしろ!学生だからといってこの金額は何だ。この俺に数時間も話させておいていったいどういうつもりだ。これなら最初からノーギャラといってもらったほうがはるかに納得がいく。こんな金額で納得しては、自分の価値をはずかしめてしまう。絶対に許せない!」。

打ちあげ気分の脱力感で気分よくビールがまわっていた私の脳味噌は、彼の強烈な「抗議」電話で吹っ飛んでしまった。返す言葉も見つからないまま「すみません」とだけ謝って、電話をかけてきた彼のいる場所を聞くとすっ飛んでいった。

彼は、弟の裕次郎の親友が経営している「フランクス」という市ヶ谷にあったステーキレストランで岡本太郎や武満らと食事をしていた。私は彼らの前で平身低頭、何も言い訳せずに素直に謝った。すると、石原慎太郎は、私の態度が非常に素直でいいと気に入ってくれた。彼は言うことははっきり言うが、とてもサッパリしたところがあって、そういう部分がなぜか私と気が合ったのかもしれない。

飛ぶ鳥を落とす勢いで人気が出ていた当時の彼は、当然、金額的なことだけを問題にしていたのではない。ただ、日本の芸術家や文化人は金銭的なことはいっさい口に出さないのだが、彼はちがった。そのへんがはっきりとしているのだ。自分たちのレベルでは最低でも五◯◯◯円は支払うのが常識だろうと。その言葉に私は、なるほどと十分納得して後日、五◯◯◯円ずつ各講師に支払った。

・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く

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