沼正三のプロペラ航空機:劇的な人生こそ真実(萩原朔美:著)

劇的な人生こそ真実―私が逢った昭和の異才たち

沼正三のプロペラ航空機・・・18

おそらく、象徴でも比喩でもなく感覚のなにかではないだろうか。脚の伸び具合。角度。ハイヒールの形状。曲線の陰影。ミニチュアのような流線型の機体。位置関係。合成された全体が醸し出す匂いを皮膚で受け止めないと、理解したことにはならないのだろう。

そうなのである。

私は沼さんの話を聞き、すっかりマゾヒズムが分かったつもりだった。マゾヒストの心理や行為を理解できたという思い込みがあったのだ。

しかし理解とは頭だけの領域のものなのだろうか。頭だけが理解と言う状態を生み出すのだろうか。印刷文字の「ウォーター」と「水」がページの上で結びついても、指の間から落下するひんやりしたものは何処かで眠ったままなのだ。沼さんの「分らないかなあ」はそこを突いたのだ。

身体はどうなっているのか。身体の理解がまだ得られていないのではないか。私は自分の身体と沼さんの身体を忘れていたのである。

沼さんの『懺悔録 我は如何にしてマゾヒストとなりし乎』(ポット出版)という本の中に「便器となって排泄物を飲み、かつ食したいと欲したとき、一般的な他のものは鳴りを潜めてシンと水を打つ。突如として観念の跳躍がある。この跳躍の高みに躍り上がることによって、初めて一般的なものから脱皮する」と書いている。まず身体。その次に観念が「躍り上がる」のだ。そこを知らないと、理解にはたどりつかないのだろう。

・・・次号更新【沼正三のプロペラ航空機:劇的な人生こそ真実(萩原朔美:著)より】に続く

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