空想好きな問題児
神田−−−懐しい町である。ちょうど日本大学の南、今の西神田公園に面したところに私の家はあった。幼児向けの絵本『キンダー・ブック』などを出していた『フレーベル館』と関係の深かった岸部幼稚園の園長の孫・岸部桃雄君などが遊び仲間だった。桃雄君は今や世界的バイオリニストとしてウィーンにいる。
駿河台からすずらん通りにかけては私の庭のようなものだった。どんな小さな露路でも知り尽くしていた。靖国神社の例大祭、神楽坂毘沙門さまの夜店。アセチレン灯の化学教室を思い出させるようなニオイを今も懐しく思い出す。今は武道館が建っている近衛連隊には、夏になるとよくセミ取りに行った。後年、私の”虚業家”としての地位、名声を不動のものとしたあのクレイ戦を武道館でやることになったのも何かの因縁だろう。
小学校は『暁星』に入れられた。おぼっちゃん学校としてかなり有名な学校だったが、今から考えても実に妙な学校だった。もともと自由教育をモットーにしたフランス系の学校だったから、軍国主義華やかなりし当時の風潮と相容れるわけがない。フランス人の牧師がたくさんおり、当時としては珍しく生徒は全員半ズボンを着用、クラスの名などもアー、べー、セーなどとつけている反面、学内に憲兵が常駐し、ニラミをきかせていた。軍部からとくにニラまれていたのだろう。肝心のフランス語も教えるのを禁じられていた。その頃、私の二級上に今の萬屋錦之助がいたそうだが、むろん覚えていない。
が、私が『暁星』にいた期間はごく短い。もともと入ったときから、私は学校というものが嫌で嫌でたまらなかった。団体行動というものに耐えられない嫌悪を感じた。人間はひとりひとり、顔、姿形が同じでないように、考えていることも能力も違うはずだ。それが何で一緒になってアイウエオだの、二、ニンが四だのをやらなきゃならないんだ。人間、もっとやりたいことをやればいいじゃないか、子供心に私はそう考えた。そうするともう、他の生徒と一緒にアイウエオだのカキクケコだのとやっているのがバカバカしくってしかたがない。授業中、私はひたすら空想にふけっていた。教師の話をまともに聞いていたことは一度としてない。
だから、教師が私に当てると私の答えは常にトンチンカンで教室中の失笑をかった。そうかと思うと、突然、手を挙げて、そのときの授業内容とはまったく無関係な質問をする。これには教師の方もまいったらしい。しまいには完全に私を無視して授業をすすめるようになった。今ふうの言葉で言うなら、典型的な”問題児”だったわけだ。
・・・・・・次号更新【遠足から抜け出して退校】に続く
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『虚実皮膜の狭間=ネットの世界で「康芳夫」ノールール(Free!)』真の虚業家の使命は何よりも時代に風穴を開け、閉塞的状況を束の間でもひっくり返して見せることである。「国際暗黒プロデューサー」、「神をも呼ぶ男」、「虚業家」といった呼び名すら弄ぶ”怪人”『康芳夫』発行メールマガジン。・・・配信内容:『康芳夫の仕掛けごと(裏と表),他の追従を許さない社会時評、人生相談、人生論などを展開,そして・・・』・・・小生 ほえまくっているが狂犬ではないので御心配なく 。
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