都市出版社版『家畜人ヤプー』(1970年発行)

私の飢渇感は、決して十分には医されなかった:家畜人ヤプー普及版(都市出版社)より・・・2

この雑誌には、マゾヒストによるマゾヒズム小説(余談ながら、『饒太郎』から『瘋癲老人日記』に至るまで、谷崎潤一郎の作品の多くはかく形容せらるべきものであり、その限り、正常人の理解し難い壁がある。健全な批評家による谷崎論の不備を私はいくつも指摘できるつもりである)が幾篇も載せられており、鬼山氏の『らぶ・すれいぶ』、真砂氏の『二百字讃歌』など、名作があった。しかし、私の飢渇感は、決して十分には医されなかった。私の夢想する完全な隷属状態に比しては、それらの作品の場面は余りにうす味であった。人権の存立する現代の日本の男と女との間に可能なのは畢竟『痴人の愛』のナオミと譲治の間におけるようなSMのプレイに過ぎない。プレイでない本当の隷属状態は、奴隷制とか捕虜状態とかの、制度的契機を必要とするのだ。

古典的マゾプレイ小説である『毛皮のヴェヌス』は例外として、ザッヘル・マゾッホの諸作品は、女王や女領主を讃美する史的短篇であり、隷属の制度性という点ではある程度満足させられたが、オーストリア帝国の検閲が彼の表現を宿命的に制約し、隷属心理の極北である汚物愛好の描写は、彼の---私信にはあるのだが---作品には絶えて見られない。その点、公刊を意図せずに成立したサド侯の著作は、そのような禁忌なく、あらゆる社会的タブーに挑戦しているし、隷属と屈従の心理の制度的契機とか?神行為に伴う性的快感とかについての透徹した認識の点でも、マゾッホより遥かに高い絶対値を持っているが、遺憾ながら、SとM、正と負の符号が私の求めるのと逆であって、被虐願望は満足させられない(『ソドムの百二十日』をはじめて世に出したデューレンは、百年前にクラフト・エビングの『病的性心理』を先取りした書物と評したが、然らず。男性マゾヒズムの視角はサドには全く欠けている。ボーヴォワールが「うんこの饗宴」と評した所以の汚物愛好なども、外形的行為は同じでも、符号が違うのだ)。

・・・次号更新に続く