人類は、知性ある家畜を使うこともできるが、自らそれになることもできるのだ:家畜人ヤプー普及版(都市出版社)より・・・3
性科学文献も渉猟した。許多の症例の記述に自己の鏡像を見出し、しばし渇きは消えたかに思われた。しかし、西洋性科学者の患者は白人であリ、その限り、皮膚の色に由来するマゾヒズム的自虐感の問題は彼らの関心から全然欠落している。そして、日本の性科学者も、独自にこの問題を見出してはいなかった。日本人の白人への劣等感がマゾヒズムとどう関係するかは、私だけの問題であるようだった。
一方、私はSF(これも、当時は通用の概念ではなかったが)にも嗜好を持ち、神田の古書肆の米兵の読んだぺーパーバックの山の中からSFを選り出しては購い、貧り読んだ時期があった。その一つ、チャペクの『山椒魚戦争』(War with the Newts)は、当時訳本も出たが、人類に奉仕する知性ある家畜の可能性と有用性を教えると同時に、その種属に読者として感情移入した私を強く昂奮させた。逆に人類に君臨し、人類を知性ある家畜として使役する他星人の物語も多く、これも私を喜ばせた。人類は、知性ある家畜を使うこともできるが、自らそれになることもできるのだ。ナチスがもし勝っていたら、人類は二つの亜種に分れたかも知れない。そしてナチスが敗れたということは、マクロの
人類史からは偶然の小輸贏に過ぎない。自由や平等や人権などを人間進歩の必然的産物と考えるのは、歴史的現実の既成事実に囚われ過ぎた見方ではあるまいか。生物科学的にはどんな人間像だって可能なのだ。SFは私にそれを教えた。
・・・次号更新に続く