虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝/康芳夫(著)より

新しい診療所

当時、ペニシリンは宝物のような特特効薬だった。性病とか肺病、何にでも効く。当時の日本にはまだなかったので、これはまさにダイヤモンドのような価値のある薬だった。アスピリンも頭痛、歯痛、痛みには何にでも効く。最新の手術メスをはじめとした医療器具とこの二つの特効薬を武器に、私の父は帰国後再び、東銀座で診療所を開業した。

命からがら帰国した父は当時、四◯〇歳前だった。もし、父が日本人だったとしても戦争に巻きこまれていたにちがいない。従軍医として、太平洋のどこかで戦死していたかもしれない。しかし、私の父や私たちの家族全員は、日本と中国という二つの国がかかえるそれぞれの問題に複雑にはさまれてしまった。これは、ふつうの人にはなかなか理解しがたい悩みかもしれない。

新しく開業した東銀座診療所は、昭和通りの三笠会館の隣にあった。昔の西神田医院時代に通っていた患者さんも来てくれたが、場所柄、出版社やマスコミ関係者が多く来るようになった。

すぐ裏には「アサヒ芸能」というタブロイド版の夕刊紙のようなものを出している出版社があり、そこの社員はほとんど父が診ていた。これはのちに徳間康快が買いとった。彼がほどなくして徳間書店を創設したのは世間衆知のとおりである。もちろん、徳間康快も患者さんだった。ほかにも銀座の料理屋の女将さんとか、またいろんな患者さんが徐々に増えていった。父親が無事帰ってきて、また昔のように患者さんや近所のつきあいも増え、私たちの家族もようやく落ちつきをとりもどしつつあった。

・・・次号更新【『虚人魁人 康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』 official HP ヴァージョン】に続く

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レフェリー・アリ、呼び屋・康氏・・・役者ぞろい!!:東京中日スポーツ(昭和54年1月26日)

「世界の猪木の評価を定着させるため戦う」猪木(左)「頼むよ」とプロモーター康氏(右)
---東京・新宿の京王プラザホテルで

レフェリー・アリ、呼び屋・康氏・・・役者ぞろい!!:東京中日スポーツ(昭和54年1月26日)

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