虚業家宣言(15):ファイト・マネー二十五万ドル
◆ファイト・マネー二十五万ドル
その晩・横浜プリンス・ホテルの一室で私と神さん、ハーバート、スポーツ・アクショソのマイク・メリッツ社長、それにクレイの代わりに来日したクレイ専門のキャメラマン・ハワード・ビンガムの五者会談が開かれた。
その席で私は、初めて、ギリギリになってクレイが来日できなくなった事情を、直接ハーバートの口から聞くことができた。
昭和四十一年二月十七日、アメリカ合衆国政府は徴兵テストの合格ラインを、突然、十五パーセソトにまで引き下げた。その二年前の三十九年、クレイはフロリダ州コーラル・ゲイブルズの徴兵事務所で試験を受けた。彼はほとんど答えられず、その成績はわずか十六パーセソトだった。当時の合格ラインは三十パーセントだったから、クレイは文句なく徴兵猶予になっていたのである。
ところが、突然、合格ラインが十五パーセントに下げられたため、十六パーセントのクレイもギリギリ有資格者となってしまい、国外に出ることはまかりならんとパスポートを取り上げられてしまった。そのために、直前になってクレイだけ、来日できなくなってしまった。そういう事情だった。
しかし、試合までには国外に出る許可も取れるはずだから、安心してほしい。ハーバートはそう言って、私と神さんをホッとさせた。
それからが、いよいよ、試合の交渉である。
なにしろ相手は海千山千のハーバートだ。神さんと私と二人がかりでも、必ず勝てるとは断言できない。真剣勝負だ。さすがに、私も神さんも緊張していた。
ハーバートが提出してきた条件はクレイのファイト・マネー、手取り三十万ドル。とにかくこの条件が受け入れられぬ限り、他の条件について話し合う用意はない、という厳しいものである。
一口に三十万ドルと言えば簡単だが、一億円である。もし、クレイが早い回にKO勝ちでもすれば、一秒が何百万円につくなんていうことになりかねない。
「三十万ドルなどというボクシング興行は、未だかつて日本ではやったことがない。それだけの外貨使用を大蔵省が許可する可能性はごく少ないだろう、ムリだ」
「そう言うが、ミスター・コオ、アリがリストんとやったときのファイト・マネーがいくらだか知っているか。二百万ドルだぜ。それと比ぺたらどうってことないだろう。日本は経済大国じゃないか」
「しかし、これはタイトル・マッチじゃないじゃないか。もしタイトル・マッチにしてくれるなら、三十万ドルどころか五十万ドルでも出すよ、ミスター・ハーバート」
神さんも私も必死だった。粘りに粘った。そして、ここでも私はブラック・モスレムに関するニワカ知識をフルに利用した。
さすがにアラーの神の威力は絶大である。やっとハーバートが折れ始めた。
二十九万ドル、二十八万ドル、二十七万ドル・・・・・・。
二十五万ドルで私は手を打った。
確かに日本では前代未聞のファイト・マネーだが、クレイのボクシングにはそれだけの価値がある。私はそう判断した。
ただし、さすがにハーバートである。試合の宇宙中継権はがっちり握って放さなかった。それと、もう一つ、万一、クレイが徴兵にひっかかったときには、この契約は「ナル・アンド・ボイド」、つまり、無効になるという一項をつけ加えるのも忘れなかった。
すぺてが終わったとき、時計はすでに三時を回っていた。夜が明けかかっていた。
その同じ時刻、赤坂の事務所では完全にマカレて殺気立った新聞記者たちがイライラのあまり、事務員をコヅイたりしてたいへんだったという。
・・・・・・次号更新【ハーバートが席を蹴った記者会見】に続く
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