ali world heavy-weight boxing mash 15R.1972・4・1 NIPPON BUDOKAN

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モハメド・アリ 対 マック・フォスター 戦カタログ(1972年・日本武道館) 収録『虚人と巨人』 #amazon

脳神経科に入院したフォスター

翌、四月一日、午後0時二十四分。ついにクレイ、フォスター戦のゴングが鳴った。私は、これで終わった---と思った。

リングサイドに坐る私の頭に、走馬灯のようにこの八年間のさまざまな事件が浮かんでは消えていた。

リング上で戦うクレイとフォスターの早い動き、だが、私には、スローモーション・ヴィデオを眺めているようで、少しも実感が湧いてこない。

まったくアッという間に十五ラウンドが終わっていた。私は自分でも気づかぬまま、いつの間にかリングに飛び上がって大声をあげていた。「やったぞ!」とかなんとか叫んでいたらしい。ピンクのチャイニーズ・ドレスがやけに目立ったそうだ。

結果は、ご存知のとおり、クレイの大差の判定勝ち。KO勝ちでなかったためファン、ジャーナリズム双方の不評をかった。

《ホラに終わったKO宣言》

《裏切られた!怒りの瞬間》

《KO宣言、見事空振り》

《KOされたファンの夢》

《クレイ伝説、過去の神話》

よくぞ書いてくれたものである。

試合が面白かったか、つまらなかったかは、ファン各人が判断することだから、私は構わない。

ただ、クレイが手を抜いたというのは嘘だ。クレイの名誉のために私はつけ加えておく。

フォスターはクレイのパンチを百数十発受けていた。脳神経をやられたフォスターが帰国後、カリフォルニアの陸軍病院に三ヵ月入院したことを報じた新聞は一紙もなかった。

四日後の五日午後九時三十分、羽田発の日航機でクレイは帰国した。ボクシング関係者は誰ひとり見送りにも来ない。

とり囲んだ美女に千円札とキスの雨を降らせながら、クレイはこう言った。

「わたしは世界各国、いろいろな国を訪問したが、日本ほど去りがたい国はない。十分にエンジョイした。九月にフレーザーを叩きのめしてチャンピオンになる。そのときは、第一回の防衛戦をまた日本でやろう」

そしてイタズラッポい笑顔を私に向けて、こうつけ加えた。

「I shall return」

太平洋戦争初期、日本軍に追われてマニラを撤退したときのマッカーサー元帥の言葉である。クレイもシャレたことを言う男だ。

・・・・・・次号更新【収支決算約一億円の黒字】に続く

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ムハマッド・アリ突然の死に関する小生コメント

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