日本神話を脱構築する:畜権神授説・沼正三『家畜人ヤプー』と日本神話の脱構築:巽孝之・・・その19
だが、ここで同時に注目すべきことは、ポスト・ダーウィニズム的「猿」と同時に日本的フォークロアにおける「猿」のコンテクストにおいても、ヤプー的本質は立派に証明されてしまう事実だろう。小松和彦は『異人論』(青土社、一九八五年)の中で昔話「猿の婿入り」の卓越した構造分析を試みた。むかしむかし、三人の娘をもった爺があまりにつらい畑仕事について「この仕事を手伝ってくれる者がいれば、娘を嫁に呉れてやってもいいのに」と呟いたところ、一匹の猿が現われたちまち仕事を片づけてしまい、けっきょく末娘が猿に嫁ぐ羽目になる。ところがこの嫁は、猿の婿に「里帰りするとき親のために餅をついて持って来たい」と申し出、重い臼と杵と米を背負わせたうえ、さらに道中無理な要求を重ねたために、とうとう猿は溺死し、末娘はのち爺のもとへ帰ってめでたしめでたし・・・・・・というのが基本パターンを成す。小松氏はこの物語構造が多様な解釈可能性を秘めることを指摘したうえで、それが最終的に「人間(主体)が異類(他者)との等価交換を装いながら、すなわち交流必要性を痛感しながら、けっきょくは知恵によって相手を搾取し、自らの悪意を隠蔽=正当化してしまう」というメッセージを発していることを重視する。異人への悪意を制度化する日本的フォークロアにおいて、猿こそはそんな異人の代表例であるが、それは逆に、異人という名の家畜を肯定する体系にほかならない。ほんらい日本人はそのようなフォークロアを語る人間的主体であったはずだが、沼正三ならば、おそらくこう再解釈してみせるだろう---いうまでもなく、そのようなフォークロアを伝幡させた背後の力こそは、来たるべき日本人家畜化時代の到来のために、日本人がヤプー的運命を受け入れやすいよう画策したイース人の慈愛なのである、と。彼らはあらかじめ「猿の婿入り」的昔話を日本民族的無意識に刷り込んでおくことによって、やがて民族的主体が知性猿猴(シミアス・サピエンス)と同定されるという、いわば「未来の記憶」をインプリントしたのである、と。
つまり、ヤプー立国イースの政治学は、わたしたちがいま日本神話や日本的民間伝承とみなしている種族的無意識の形成条件をすべて「未来の記憶」としてあらかじめ植え込むことによって成立した論理的無限循環にひとしい。それが判明するとき、まっさきに思い出されるのは、沼正三が『家畜人ヤプー』に手を染める前、強烈なまでに意識したであろうアーサー・C・クラーク一九五三年の長編小説『幼年期の終り』である。沼はまだ同書の日本語訳が出る以前、自らの一九五O年代における「奇課クラブ」連載エッセイの中で「人類全体の隷属を扱ったSF」の典型として『幼年期の終り』(沼訳では『幼児期終る』を紹介し、のちにその時間的論的解釈をめぐって三島由紀夫を批判するほどに、入れあげていたからだ(沼正三『集成「ある夢想家の手帳から」』[太田出版、一九九八年]第八三章)。
・・・畜権神授説・沼正三『家畜人ヤプー』と日本神話の脱構築:巽孝之 より・・・続く
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いまはやりのSF小説の先駆、気宇広大のマゾヒズム文学の金字塔とうたわれる『家畜人ヤプー』の著者はナゾの作家としてヴェールに包まれている。そのナゾときに体当たりする問題作!
風俗奇譚(昭和45年7月臨時増刊号)小説 沼正三【著:嵐山光三郎】
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