逆ユートピアの栄光と悲惨・・・13
マルクーゼは、精神分析を社会科学的に拡大しながら結局は「抑圧的な生産性を人間の自我実現として讃美する」ことに終始している新フロイト派の連中に、我慢ができなかったらしい。そこで、マルクーゼの提起するものは、抑圧の廃絶こそ新しい文明の目指す方向でなければならない、という主張である。そして、その具体的な内容として、オルフェウスやナルキッソス神話を援用しつつ、かれは、リビドーの全般的解放、パーソナリティ全体のエロス化を構想するのである。「現実原則」の抑圧の下で、久しい間、性欲は肉体の一部(性器)に集中限局され、肉体の他の部分は労働の道具として意味づけられていた。だが、抑圧の排除された新世界において、すべての性感帯は復活し、性器の優位性は失われる。肉体の全体が性的定着の対象となり、快楽の手段となる。もはや肉体は労働の道具たることをやめ、仕事は遊びとなり、かくて、人類の日々は晴れやかな祝祭日の連続となる・・・・・・。マルクーゼが『エロス的文明」で構想したものは、かように「現実原則」と「快楽原則」の止揚の果て、一切の抑圧の廃棄の彼方に現われる、まさしくユートピア的な風土であった。
ところで、マルクーゼの世界と、イースの恐るべき逆ユートピアとの間には、一脈の類縁が感じられないであろうか?一方はれっきとした知名の哲学者、一方は荒唐な夢譚作家などというなかれ、マゾヒズムによる性的充足=リビドーの解放(快楽原則)と、社会的職務の遂行(現実原則)とは、確かにここでも一元化されており、少くとも、労役が快楽に変じ、奉仕が愉悦と化している点で、両者は選ぶところがない。イース帝国のくだす社会的全要請に対して、エロス的に反応できるヤプーたちは、疑いもなく「エロス的人間」であり、さすれば、ヤプーの側に立つ時、イース帝国の文明を「エロス的文明」と呼ぶことは一向にさしつかえない。
・・・次号更新【逆ユートピアの栄光と悲惨:家畜人ヤプー解説(前田宗男)より】に続く
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