戦後最高のSM奇書「家畜人ヤプー」の覆面作家と名指しされた 東京高裁 倉田判事の空しい反論(3)

戦後最高のSM奇書「家畜人ヤプー」の覆面作家と名指しされた 東京高裁 倉田判事の空しい反論:週刊文春(昭和57年 10月14日号)

戦後最高のSM奇書「家畜人ヤプー」の覆面作家と名指しされた 東京高裁 倉田判事の空しい反論:週刊文春(昭和57年 10月14日号)

以前より沼氏の代理人と称していた天野哲夫氏(56)、この人は新潮社のレッキとした社員である。

かくして、新聞もテレビも、真相は藪の中といった報道に沸く事態となったのだが・・・・・・。

問題のレポートをひもとく時が来たようである。

詳しくは『諸君!』をお読みいただくしかないのだが、森下氏は、いかにして「沼正三=倉田卓次判事」と断定するに至ったのか。その骨子は次のように要約されるだろう。

1.森下氏と「沼正三」は、今から二十六、七年前大阪で発行されていたSM雑誌『奇譚クラブ』の同好の士であり寄稿家であった。

2.「沼正三」は当時「マゾヒストの手帖より」と題した、マゾにまつわるエッセイを連載し、森下氏も「手帖」より一月遅れて、森本愛造のペンネームで、「残虐な女達」の連載を始めた。

3.森下氏の連載を読んだ「沼正三」は、森下氏に連絡を取りたくなり、『奇譚クラブ』の吉田稔社長に、「森本愛造氏の住所を教えてほしい」と頼んだ。

4.吉田社長から、「教えてやっていいか」と訊かれた森下氏は即座にに承諾。

5.しばらくして、「沼正三」から手紙が来た。はっきりした内容は覚えていないが、森下氏が連載している「残虐な女達」についての感想だったと思われる。「沼正三」の手紙には、住所が書かれていなかった。

6.身元はかくしたいものの、森下氏からの返事がもらえないことにイラついた「沼正三」は、意を決して、森下氏にとうとう手紙の宛先を書いてきた。

7.その宛先は、長野県の飯田市江戸浜町県営住宅七号 原政信様方 倉田貞二というものだった(「沼正三」はこの倉田貞二氏から、森下氏の手紙を受けとるのだと書いてきている。この段階で、倉田貞二氏と文通相手の「沼正三」との関係は不明だった)。

8.文通を始めてしばらくたった頃、森下氏の自宅に電話がかかり、翌日の夜、「沼正三」は森下氏が沼氏宛に出した手紙の束を、身分証代わりに持って訪ねてきた。

9.その夜「沼正三」は『女天下』というドイツ語原書を森下氏から借り受けると、その場で読み始め、翌日の朝までに全四巻を読了して、帰っていった。なんたる博識!

10.その後、文通は十年ほど続いた(「沼正三」からの手紙には、蓮載中の『家畜人ヤプー』に関する抱負、構想、ディテールも綴られている)。

11.昭和五十三年になって、森下氏は、「沼正三」の身元調べを思い立って、森下氏の手紙の中継者である倉田貞二氏に連絡をとるべく、「原政信様方」に電話を入れる。原氏は、倉田貞ニではなく倉田卓次でしょうといい、「佐賀地裁の所長に栄転した」ことを告げる。

12.森下氏は、倉田卓次裁判官の任地を調べてみる。飯田市や海外留学先を含む各時期の任地が、「沼正三」の手紙の発信地に一致。倉田=「沼正三」ではないのか。

13.今年九月、東京高裁の法廷で森下氏は傍聴席から、倉田判事の顔を確認。それは、かつて自宅を訪れた「沼正三」にほかならなかった。

・・・次号更新に続く