この小説は倉田氏が長野地家裁飯田支部の判事補をしていた昭和三十年から三十四年にかけて執筆した
森下氏は五十三年になって、文通のあて先に電話したところ、手紙を取り次いだ人は長野地家裁飯田支部の事務官で、「倉田」なる人物は、文通当時同支部の裁判官をしていた「倉田卓次氏」だったことがわかった。
この人物は三十一年四月か五月に、森下氏を自宅に訪ねており、同氏は先月二日になって東京高裁の法廷で倉田判事を見て、面会した人物と同一であることを確信したという。
こうしたことから森下氏は、この小説は倉田氏が長野地家裁飯田支部の判事補をしていた昭和三十年から三十四年にかけて執筆したとみている。
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『諸君!』昭和57年(1982年)11月号:衝撃の新事実!三島由紀夫が絶賛した戦後の一大奇書『家畜人ヤプー』の覆面作家は東京高裁・倉田卓次判事
彼に初めて出会ったのは、もう二十六、七年前のことであろうか。当時は、彼が何を生業としている男なのか知らなかった。いや、その本名も、まったく知らされていなかったのである。
私も彼も、そのころ大阪で発行されていたSM雑誌『奇譚クラブ』の寄稿家であった。彼のペンネームは「沼正三」。のちに『家畜人ヤプー』の作者として一世を風靡した、あの沼正三の名で『マゾヒストの手帖より』と題して、マゾにまつわるエッセイ的なものを連載していた。この連載は、のちに都市出版社より『ある夢想家の手帖』と改題して単行本化されたものである。
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