康芳夫/神彰

第二章

クレィを日本へ

◆”呼び屋”神彰のもとへ

私が、当時『AFA(アート・フレンド・アソシエーション)』を主宰し、飛ぶ鳥落とす勢いだった”呼び屋”神彰さんと知り合い、彼と共に仕事をするようになったのは、実は石原慎太郎さんのおかげである。

私が石原さんと知り合った事情については後の章で詳しく書くから、ここでは略すが、とにかく、そのとき、私は石原さんとともに映画を一本あげたばかりだった。自作の映画化に当って石原さんが、私を助監督として採用してくれたのであった。

しかし、石原さんもそうだったが、私も映画製作というものには一度で懲りてしまった。

何しろ一から十まで封建的な社会だった、私や石原さんが何か新しいアイデアなり企画を出すと、それは幾重にも張りめぐらされた目に見えない網によってことごとくすい上げられツブされてしまうのだった。どんな小さなことでも、私や石原さんの言い分がストレートに通ったということは一度もない。

数年後、テレビの異常な発達や、レジャーの多様化などによって、映画界が斜陽化したときになって、初めてその固い網にも裂け目ができ、その裂け目から、大島渚、石堂淑郎、吉田喜重、篠田正浩など日本のヌーヴェルヴァーグと呼ばれた一群の新人たちが輩出してきたわけだが、私が石原さんと『五つの恋―日本篇』を撮った頃は、映画は、まだまだ”娯楽の王者”として君臨している時代だったから、われわれ若い世代の言い分が通る世界ではなかったのである。

だから、散々苦労した末、『五つの恋?日本篇』が完成すると同時に私は助監督業からアッサリ足を洗い、また仕事を失う羽目になった。いっそ、アメリカにでも行って、何かやりたいことを見つけた方がいいかもしれない、そう思って真剣にアメリカ行きを考えていた。

そんなとき、石原さんが、また私を呼んでくれた。

「『アート・フレンド・アソシエーション』をやってる神彰氏のところで働いてみる気はないかね」

そう、石原さんは言う。

当時、新進作家として石原さんは同じ新人作家であった有吉佐和子さんと親しくしており、 その関係で神さんから、「誰か適当な人がいたら紹介してほしい」と頼まれていたらしい。

・・・次号更新【『戦後興行界の風雲児』】に続く

◆バックナンバー:虚業家宣言(1)/虚業家宣言(2)